0.序
石の壁は、昼も夜も同じ温度をしている。飛知微がそんなことを知ったのは、二十六になった早春だった。まだ息の白くなる朝夕には、肌に触れる壁はさほど冷たさを感じない。
水の滴る音を数えるのは、三日目でやめた。数えたところで、時の流れは変わらない。
暗い鉄格子の向こうに、書記官が提灯を提げて立った。若い男で、こちらの罪状を読み上げる声が何故か少し震えていた。
「官金横領、四万八千両。公文書偽造、十七件。贈賄、収賄。及び——政治犯ならびに罪人の逃亡幇助、二十三名に及ぶ。」
「うん」
「相違ないか」
「ないよ」
書記官が顔を上げ、何か言いかけてやめた。壁に背をつけたまま、飛知微は膝を抱えている。自分の膝が薄い布越しに角ばって見えるほど痩せていた。
「……弁明の機会は、明日の朝までだ」
「気を遣わせて悪いね。書いてもらうことがない」
沈痛な面持ちの書記官が持つ提灯の光が遠ざかり、また周囲に闇が戻った。しばらくして、また水音が落ちた。
目の奥が重くて、瞼を閉じた。
◆
最初に、香が濃すぎる、と飛知微は思った。
瞼の裏が赤くなるほどの、強い香気。嗅ぎ慣れてしまった石の匂いではなく、白檀と、その下に重なるように甘い花の香りがした。
目を開けると、霞んだ視界に朱と金で彩色された梁が映った。華やかな牡丹の絵が描かれている。首を巡らせると柔らかい絹が肌を滑って、それが自分の着ているものだと気づくのに少し時がかかった。薄い紅の襦裙。袖口には銀糸の刺繍。だが手首に、縄の痕が薄く残ったままで、それが夢であることを否定していた。
寝台の脇に、人が座っていた。
細身で、背がとても高い。相手が腰を下ろしていてもそれが分かるほどの身の丈だ。深緑の袍に黒い帯、髪は一筋の乱れもなく結い上げられている。膝の上で組まれた手は骨ばって大きく、そこだけ、彼がかつて剣を握っていた頃の面影を残していた。
記憶と重ならない、優美な姿。
細長い鳳眼、形のいい鼻梁と唇。かつて日に焼けて赤銅色をしていた肌は、今は射干玉のように白く滑らかだった。庭で弓を引いていた頃、笑うと目尻に細かい皺が寄って、白い歯を覗かせていた。大好きだった彼の笑い皺の場所に、いまは優美な沈黙がある。
その顔が、ゆっくりと微笑んだ。
美しい、と思った。息を呑むほどに美しく、そして無感動で温度がない。
「おはよう、飛答応」
彼の声は昔のままだった。低く、少し掠れ、耳に馴染む。
「お前が俺を地獄に落として以来だな。元気だったか?」
身を起こそうとして、腕に力が入らなかった。蘇承鈞は手を貸してこない。ただこちらを冷たく見下ろしていた。
「……何日、寝かされていたんですか」
「四日。薬が効き過ぎたようだな。なかなか加減が難しい」
ようやく肘をついて起き上がることができた。窓の外は明るい。格子の向こうに、白い壁と、剪定された木の梢が見えた。どこかから女の笑い声がさざめくように響いてきて、すぐに遠のいた。
「ここは」
「後宮の西の端。永寧宮の別院だ。人は来ない。俺が来るなと言ってあるからな」
蘇承鈞が袖から小さな木札を出して、指先で回した。宮女の身分札に似た形をしている。表に何か彫ってあるのが一瞬見えた。
「一昨日の朝、罪人某は市中で斬られた。首は三日晒される決まりでね。ずいぶん人が集まったそうだ。よかったな、最後まで人気者で」
「……誰が斬られたって」
「さあ。もう、名前のなくなった男だ」
札を袖に戻す。動作にひとつも無駄がない。
「代わりに、先月入宮するなり体調を崩していた答応が今、目覚めた。もとは南方の下級官吏の娘で、身元を知る者は都にいない。都合のいいことに、その娘は入宮の直前に病を得てね。書類だけが宮に届いていたんだ」
言いながら、こちらの顔をじっと見た。感情の読めない、光のない眼差しだった。
「なんでこんなことを、とは訊かないのか」
「訊いたら答えてくれるんですか」
「いや?」
蘇承鈞は笑った。目元の動かない笑い方だった。昔は、笑うと先に目が笑った。
卓の上に茶器が並んでいる。蘇承鈞は立ち上がってそちらへ行き、慣れた手つきで湯を注いだ。茶葉の匂いが香の間に立ちのぼり、碗が差し出された。受け取る飛知微の指先はまだ震えていて、熱い雫が少し零れた。蘇承鈞は何も言わずに布巾を、無造作に投げて寄越した。
「ところでものは相談なんだが」
自分の分の茶を淹れながら、彼は世間話でも始めるような調子で話しかけてくる。
「後宮暮らしはなかなか物入りでね。飛答応の支度金では到底やっていけない。炭も、薬も、口を塞ぐ銭も要る。そこで、噂に聞いたお前の隠し財産とやらを使わせてもらいたいんだが」
一瞬、答えに窮し、碗の縁を指でなぞった。湯気の立ち上る茶は熱かった。
「……全部、使いきりましたよ。道楽で」
蘇承鈞が茶を注ぐ音が、ぴたりと止まった。
彼はこちらを見ない。急須の蓋を戻し、布巾で口を拭い、それから振り返った。表情は先ほどと寸分違わない。
「四万八千両の道楽か」
「うん」
「何をどう使ったらそうなる」
「贅沢はきりがないですからね」
彼はしばらく黙っていた。窓の外に、また誰かが笑う声が聞こえる。
「そうか」
碗を持ち上げ、口をつけ、それきり蘇承鈞は話題を変えた。
「熱いうちに飲め。冷めると渋くなる」




