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「絶対迎えに行くよ」と「迎えに来たよ」の間

作者: こじまき
掲載日:2026/05/17

王都にある、商家ランバート家の裏庭。


十三歳のリリー・ランバートは、細い腕で箒を握り、掃いても掃いてもなくならない落ち葉を集めている。


プラチナブロンドの髪にスカイブルーの瞳をもつ美しい少女は、かつてはランバート家唯一の「お嬢様」として、周囲の愛情と関心を一身に受けていた。


しかしよくある話で、母が亡くなり、継母がやってきて、状況は変わってしまった。


本物のお嬢様だった少女は、今や使用人扱い。


「リリーお嬢様」


下働きの少年・アルがひょこっと顔を出す。


もう秋も深まっているのに薄手のシャツ一枚で、サイズの合わない靴には穴が開いている。


「厨房からもらってきました。食べてください」


少し焦げた焼き菓子を、リリーはすっかりカサカサになってしまった手で受け取る。


「奥様達に見つからないうちに、早く食べて」


促されるままに頬張ると、懐かしい甘い味がした。


「美味しい…」


そう言ってリリーは笑う。


自分がリリーを笑顔にしてあげられたことが、アルは何より嬉しかった。


自分だけが、彼女を笑顔にしてあげられる。自分だけが、か弱い彼女を本当に大切にしてあげられるのだと、そう思った。


――そして、これからはもっと。


「お嬢様、見てください」


アルは袖をまくりあげる。


「昨日現れたんです」

「まあ、これって…!」


彼の二の腕には勇者の適性がある者にのみ浮かび上がる、獅子紋が浮き出ていた。


「俺、この国で一番の勇者になって、活躍してお金を稼いで、お嬢様をここから救い出します。毎日きれいなドレスを着せて、焦げていないお菓子を食べさせてあげますから」

「…本当?」

「本当です。俺はお嬢様を救う勇者になって、絶対迎えに来ます」

「…嬉しい。待ってる」

「はい。信じて待っていてくださいね」



その日から六年の月日が流れた。


アルは勇者アルフレートとなり、伝説を打ち立てた。


誰にも抜けなかった聖剣を抜き、この国に襲い掛かった魔獣を討伐し、国を救ったのだ。


その名は国中に轟き、国王までもが彼を讃える。


しかしアルフレートは一緒に転戦していた美しい聖女からの求婚も、「褒美として王女を娶らせよう」という国王からの申し出も断り、凱旋パレードもそこそこに、あの場所へやってきた。


リリーが待っているはずの、ランバート邸。


しかしそこに、リリーはいなかった。


ランバート家すら、なかった。


アルフレートが勇者になるため商会を去って三年後、ちょうど修業が終わってアルフレートが魔獣討伐に参戦し始めてすぐ、商船が沈み、ランバート商会は莫大な借金を抱えて潰れた。


魔獣を追って転戦していた駆け出し勇者のアルフレートに、中堅どころの商家が没落したという知らせなど、届くはずもなかった。


「お嬢様…!」


アルフレートは狂ったように彼女を探した。


ギルドに大枚を払い、かつての使用人たちにも片っ端から話を聞いて、ついに辿り着いた。


――王都で最も下俗な歓楽街、レッドライト・コーストに。


「あら、今を時めく勇者様。こんなところで女を探すようなお方じゃないと思うけど、何か特殊なプレイをお望みなのかしら?」


案内の婆が、にたりと笑う。歯がほとんどない。


「正直におっしゃってね」

「リリーという女性を探している。プラチナブロンドにスカイブルーの目で、年齢は十九歳だ」

「…プラチナブロンドはひとりいるわ。今はリリーという名前じゃないけれど」


婆に渡された地図にある、星印。


小さな路地の、一番奥の赤いドア。


(こんないかがわしい場所に、本当にお嬢様が…?すぐに助け出さなくては)



赤いドアの奥、煙がくゆり、安酒の匂いが立ち込めるそこに、彼女はいた。


はだけた胸元に、妙に目立つ赤い口紅。男の膝に座り、腰を抱かれながら体をくねらせて笑っている。


男が酒を飲み干すと、彼女は男にキスをした。


そして立ち上がって、慣れた様子で男の手を引く。


「久しぶりに来てくれたんだもの、たっぷり楽しみましょう?」

「ああ、マグダレーナ」


信じられないが、間違いない。


ずっとずっと想い続けていた相手を、見間違うはずがないのだから。


「リリー…お嬢様…?」


その声で、彼女の記憶の奥底にあった、焦げた焼き菓子の匂いが呼び起こされる。


振り返ると、銀に輝く甲冑を纏って伝説の聖剣を帯びた、逞しく美しい勇者の姿があった。


「…アル、なの?」


掠れた声が震える。


勇者アルフレートの名は、彼女も知っていた。


客に見せてもらう安い新聞の小さな挿絵では、もてはやされる勇者が初恋の彼だとは、確信できなかったけれど。


「リリーお嬢様…!」


(迎えに来てくれた…)


彼女は震える脚で、一歩勇者のほうへ踏み出そうとした。


けれど、勇者の次の一言が、彼女の足を止めた。


「どうして…どうして他の男に触れられながら、笑っていられるんですか…?」


彼の目に浮かんでいるのは、嫌悪。


「本当に娼婦なんですか?こんなところで働いて、平気なんですか…っ!?」


平気なはずがない。けれどそうしなければ、抱いてくれる客がいなければ、今まで生きていられなかった。


だから彼女は「アル」と呼ぼうとした唇を引き結んで、じりっとあとずさって、口角を片側だけ上げた。


リリーではなく、マグダレーナとして。


「…勇者様、お嬢様と従僕のプレイをお望み?けれど、いくら勇者様でも横入りはいけませんわ。()()()()()()をご指名なら、順番をお待ちくださいね」


店にいる男たちから、「いいぞ」「世界を救った勇者でも、ルールは守ってもらわないとなあ」と、笑いが起こる。


「マグダレーナ…?」

「ええ、私はマグダレーナです」


「レッドライト・コーストで一番のべっぴん娼婦!」「マグダレーナを指名したら、この王都の大体の男とは兄弟さ」と周囲がはやしたてる。


彼女は客を促して足早に階段を上り、顎を上げてアルフレートを見下ろす。


「違う…違う!あなたの目はもっと無垢で澄んでいた…!やめてください、リリーお嬢様…!」


小さな焼き菓子を大事そうにかじり、「美味しい」と恥ずかしそうに笑う、百合のような少女だったはずだ。


血にまみれた世界で唯一の、優しい聖域だったはずだ。


厳しい修行や戦いのなかで、彼女をあの屋敷から救い出すことだけが、彼の目標であり、拠り所だった。


なのに目の前の彼女はもう、「勇者に救われるか弱いお姫様」ではない。


妖艶に、不敵に、国一番の勇者である自分を笑って見下す娼婦だ。


「俺の好きだったリリーお嬢様が…!あのお嬢様が…!」


彼女は変わってしまった。


約束した場所で、約束したときの彼女のままで、自分を待っていてはくれなかった。


「どうしてこんなことに…!何のために俺は…」


仲間の血の匂いに吐きそうになりながら、それでも倒れることを許さず進んできた。


生きるのを諦めかけた凍てつく夜も、彼女のことを思い出して目を開けた。


「何のために今まで…どうしてなんだ…!」


マグダレーナの唇が、ぴくりと片側だけ吊り上がった。


スカイブルーの目がぎっと鋭くなる。


「どうして、ですって…?どうしようもなかったからよ」


継母たちに置き去りにされたリリーは、彼女を不憫に思った使用人の伝手で、他の商家の使用人になった。


だがその美しい容姿から主人の歓心を買ってしまい、「野垂れ死ねばいい」と奥方に追い出された。


「主人に言い寄る泥棒猫」というレッテルを貼られた彼女を雇ってくれる屋敷はなく、針子を始めたが、主人の暴力に耐えかねて逃げ出した。


住む場所も食べるものもなく彷徨っていた彼女に声をかけたのが、この街の案内人の婆だったのだ。


アルフレートが聖剣を手に栄光の階段を駆け上り、追憶の中の「理想の女神」を慈しんでいた七年間。


「私はただ、生きるために…ひとつのパンと一杯の水のために必死だった」


継母たちに虐げられながらも、眠る場所と食事があり、たまには笑えたあの屋敷を懐かしく思う程度には、過酷だった。


「そして私に『生きていていい』と言ってくれたのは、ここしかなかったのよ」


だからリリーは泣くのを止めて、過去と名前を捨てた。泥の中で生きるために。


誰になんと言われても、自分が生き抜くためには、ここは必要な場所だった。


「私を救ってくれたのは、ここなの。一番助けてほしいときに戻って来なかったあなたではないのよ」


「お前はなんの役にも立たなかった」と言われて言葉を失うアルフレートから、彼女は目を逸らす。


そして客に「お待たせしてごめんなさいね。サービスするわ」と妖艶な笑みを向けた。


アルフレートは思わず階段を駆け上り、マグダレーナの腕を掴んだ。


彼女が纏う濃い化粧の匂いが揺れて、鼻につく。


「いつか彼女に触れるときには、どれほど心がときめくことだろう」と思っていたのに、今彼が感じているのは怒りだ。


「知らない女」になってしまったリリーへの、正体もわからない怒り。


「リリーお嬢様は…俺の清らかで優しいリリーお嬢様はどこへ行ってしまったんだ…!」


マグダレーナは一瞬俯いてから、ふっと顔を上げた。うっすらと笑みを浮かべて。


「…だって、リリーのままだったら死んでいたのですもの」


マグダレーナは一瞬目を揺らがせてから、聞く。


「リリーのまま死んでいてくれたほうがよかった?」


アルフレートの目がはっと見開かれる。


(…そうなのね)


彼が腕に抱くことを夢見ていたのは純真無垢なリリーであって、薄汚れたマグダレーナではない。


「お嬢様…違うんです…!俺は…っ」


彼女は彼の腕をそっと払った。


もうその腕に力は残っておらず、彼女の細い腕でも簡単に払える。


「勇者様、あなたがもういない少女の幻想を追い求めていたのと同じように、私もあなたに幻想を抱いていたようですわ」

「幻想…?」


覚悟を決めながら、それでもどこかで期待していた。


いつか、初恋の彼が迎えに来てくれること。


そしてこの泥の中から引き揚げて、今の自分ごと「生きていてくれてありがとう」と愛してくれること。


だからこそ、辛くてもここで生きることを選んで、待っていたのだ。


けれどそれはおとぎ話に過ぎなかったと、彼女は理解した。


待ち焦がれていた人がやっと来てくれたと思ったら、「昔のリリーじゃない」「穢れた」と言われて、初恋と微かな希望にとどめを刺されたのだから。


「さようなら、勇者様。もうお会いすることはないでしょう」

「違、俺は…」

「…私はマグダレーナですわ」


彼女は勇者の背中を見送りもせず、客の手を引いた。


「楽しみましょう?」と妖艶に微笑みながら。


リリーでなくなった彼女は、こうやって生きていく。


彼は確かに来てくれた。けれど、遅すぎた。


「彼が今の私を愛せないように、私も今の彼を愛せない」


――「絶対迎えに行くよ」と「迎えに来たよ」の間。


待つ時間はあまりに長く厳しく、お互いが抱いていた幻想は、泥水に溶けて消えた。

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