「絶対迎えに行くよ」と「迎えに来たよ」の間
王都にある、商家ランバート家の裏庭。
十三歳のリリー・ランバートは、細い腕で箒を握り、掃いても掃いてもなくならない落ち葉を集めている。
プラチナブロンドの髪にスカイブルーの瞳をもつ美しい少女は、かつてはランバート家唯一の「お嬢様」として、周囲の愛情と関心を一身に受けていた。
しかしよくある話で、母が亡くなり、継母がやってきて、状況は変わってしまった。
本物のお嬢様だった少女は、今や使用人扱い。
「リリーお嬢様」
下働きの少年・アルがひょこっと顔を出す。
もう秋も深まっているのに薄手のシャツ一枚で、サイズの合わない靴には穴が開いている。
「厨房からもらってきました。食べてください」
少し焦げた焼き菓子を、リリーはすっかりカサカサになってしまった手で受け取る。
「奥様達に見つからないうちに、早く食べて」
促されるままに頬張ると、懐かしい甘い味がした。
「美味しい…」
そう言ってリリーは笑う。
自分がリリーを笑顔にしてあげられたことが、アルは何より嬉しかった。
自分だけが、彼女を笑顔にしてあげられる。自分だけが、か弱い彼女を本当に大切にしてあげられるのだと、そう思った。
――そして、これからはもっと。
「お嬢様、見てください」
アルは袖をまくりあげる。
「昨日現れたんです」
「まあ、これって…!」
彼の二の腕には勇者の適性がある者にのみ浮かび上がる、獅子紋が浮き出ていた。
「俺、この国で一番の勇者になって、活躍してお金を稼いで、お嬢様をここから救い出します。毎日きれいなドレスを着せて、焦げていないお菓子を食べさせてあげますから」
「…本当?」
「本当です。俺はお嬢様を救う勇者になって、絶対迎えに来ます」
「…嬉しい。待ってる」
「はい。信じて待っていてくださいね」
◆
その日から六年の月日が流れた。
アルは勇者アルフレートとなり、伝説を打ち立てた。
誰にも抜けなかった聖剣を抜き、この国に襲い掛かった魔獣を討伐し、国を救ったのだ。
その名は国中に轟き、国王までもが彼を讃える。
しかしアルフレートは一緒に転戦していた美しい聖女からの求婚も、「褒美として王女を娶らせよう」という国王からの申し出も断り、凱旋パレードもそこそこに、あの場所へやってきた。
リリーが待っているはずの、ランバート邸。
しかしそこに、リリーはいなかった。
ランバート家すら、なかった。
アルフレートが勇者になるため商会を去って三年後、ちょうど修業が終わってアルフレートが魔獣討伐に参戦し始めてすぐ、商船が沈み、ランバート商会は莫大な借金を抱えて潰れた。
魔獣を追って転戦していた駆け出し勇者のアルフレートに、中堅どころの商家が没落したという知らせなど、届くはずもなかった。
「お嬢様…!」
アルフレートは狂ったように彼女を探した。
ギルドに大枚を払い、かつての使用人たちにも片っ端から話を聞いて、ついに辿り着いた。
――王都で最も下俗な歓楽街、レッドライト・コーストに。
「あら、今を時めく勇者様。こんなところで女を探すようなお方じゃないと思うけど、何か特殊なプレイをお望みなのかしら?」
案内の婆が、にたりと笑う。歯がほとんどない。
「正直におっしゃってね」
「リリーという女性を探している。プラチナブロンドにスカイブルーの目で、年齢は十九歳だ」
「…プラチナブロンドはひとりいるわ。今はリリーという名前じゃないけれど」
婆に渡された地図にある、星印。
小さな路地の、一番奥の赤いドア。
(こんないかがわしい場所に、本当にお嬢様が…?すぐに助け出さなくては)
◆
赤いドアの奥、煙がくゆり、安酒の匂いが立ち込めるそこに、彼女はいた。
はだけた胸元に、妙に目立つ赤い口紅。男の膝に座り、腰を抱かれながら体をくねらせて笑っている。
男が酒を飲み干すと、彼女は男にキスをした。
そして立ち上がって、慣れた様子で男の手を引く。
「久しぶりに来てくれたんだもの、たっぷり楽しみましょう?」
「ああ、マグダレーナ」
信じられないが、間違いない。
ずっとずっと想い続けていた相手を、見間違うはずがないのだから。
「リリー…お嬢様…?」
その声で、彼女の記憶の奥底にあった、焦げた焼き菓子の匂いが呼び起こされる。
振り返ると、銀に輝く甲冑を纏って伝説の聖剣を帯びた、逞しく美しい勇者の姿があった。
「…アル、なの?」
掠れた声が震える。
勇者アルフレートの名は、彼女も知っていた。
客に見せてもらう安い新聞の小さな挿絵では、もてはやされる勇者が初恋の彼だとは、確信できなかったけれど。
「リリーお嬢様…!」
(迎えに来てくれた…)
彼女は震える脚で、一歩勇者のほうへ踏み出そうとした。
けれど、勇者の次の一言が、彼女の足を止めた。
「どうして…どうして他の男に触れられながら、笑っていられるんですか…?」
彼の目に浮かんでいるのは、嫌悪。
「本当に娼婦なんですか?こんなところで働いて、平気なんですか…っ!?」
平気なはずがない。けれどそうしなければ、抱いてくれる客がいなければ、今まで生きていられなかった。
だから彼女は「アル」と呼ぼうとした唇を引き結んで、じりっとあとずさって、口角を片側だけ上げた。
リリーではなく、マグダレーナとして。
「…勇者様、お嬢様と従僕のプレイをお望み?けれど、いくら勇者様でも横入りはいけませんわ。マグダレーナをご指名なら、順番をお待ちくださいね」
店にいる男たちから、「いいぞ」「世界を救った勇者でも、ルールは守ってもらわないとなあ」と、笑いが起こる。
「マグダレーナ…?」
「ええ、私はマグダレーナです」
「レッドライト・コーストで一番のべっぴん娼婦!」「マグダレーナを指名したら、この王都の大体の男とは兄弟さ」と周囲がはやしたてる。
彼女は客を促して足早に階段を上り、顎を上げてアルフレートを見下ろす。
「違う…違う!あなたの目はもっと無垢で澄んでいた…!やめてください、リリーお嬢様…!」
小さな焼き菓子を大事そうにかじり、「美味しい」と恥ずかしそうに笑う、百合のような少女だったはずだ。
血にまみれた世界で唯一の、優しい聖域だったはずだ。
厳しい修行や戦いのなかで、彼女をあの屋敷から救い出すことだけが、彼の目標であり、拠り所だった。
なのに目の前の彼女はもう、「勇者に救われるか弱いお姫様」ではない。
妖艶に、不敵に、国一番の勇者である自分を笑って見下す娼婦だ。
「俺の好きだったリリーお嬢様が…!あのお嬢様が…!」
彼女は変わってしまった。
約束した場所で、約束したときの彼女のままで、自分を待っていてはくれなかった。
「どうしてこんなことに…!何のために俺は…」
仲間の血の匂いに吐きそうになりながら、それでも倒れることを許さず進んできた。
生きるのを諦めかけた凍てつく夜も、彼女のことを思い出して目を開けた。
「何のために今まで…どうしてなんだ…!」
マグダレーナの唇が、ぴくりと片側だけ吊り上がった。
スカイブルーの目がぎっと鋭くなる。
「どうして、ですって…?どうしようもなかったからよ」
継母たちに置き去りにされたリリーは、彼女を不憫に思った使用人の伝手で、他の商家の使用人になった。
だがその美しい容姿から主人の歓心を買ってしまい、「野垂れ死ねばいい」と奥方に追い出された。
「主人に言い寄る泥棒猫」というレッテルを貼られた彼女を雇ってくれる屋敷はなく、針子を始めたが、主人の暴力に耐えかねて逃げ出した。
住む場所も食べるものもなく彷徨っていた彼女に声をかけたのが、この街の案内人の婆だったのだ。
アルフレートが聖剣を手に栄光の階段を駆け上り、追憶の中の「理想の女神」を慈しんでいた七年間。
「私はただ、生きるために…ひとつのパンと一杯の水のために必死だった」
継母たちに虐げられながらも、眠る場所と食事があり、たまには笑えたあの屋敷を懐かしく思う程度には、過酷だった。
「そして私に『生きていていい』と言ってくれたのは、ここしかなかったのよ」
だからリリーは泣くのを止めて、過去と名前を捨てた。泥の中で生きるために。
誰になんと言われても、自分が生き抜くためには、ここは必要な場所だった。
「私を救ってくれたのは、ここなの。一番助けてほしいときに戻って来なかったあなたではないのよ」
「お前はなんの役にも立たなかった」と言われて言葉を失うアルフレートから、彼女は目を逸らす。
そして客に「お待たせしてごめんなさいね。サービスするわ」と妖艶な笑みを向けた。
アルフレートは思わず階段を駆け上り、マグダレーナの腕を掴んだ。
彼女が纏う濃い化粧の匂いが揺れて、鼻につく。
「いつか彼女に触れるときには、どれほど心がときめくことだろう」と思っていたのに、今彼が感じているのは怒りだ。
「知らない女」になってしまったリリーへの、正体もわからない怒り。
「リリーお嬢様は…俺の清らかで優しいリリーお嬢様はどこへ行ってしまったんだ…!」
マグダレーナは一瞬俯いてから、ふっと顔を上げた。うっすらと笑みを浮かべて。
「…だって、リリーのままだったら死んでいたのですもの」
マグダレーナは一瞬目を揺らがせてから、聞く。
「リリーのまま死んでいてくれたほうがよかった?」
アルフレートの目がはっと見開かれる。
(…そうなのね)
彼が腕に抱くことを夢見ていたのは純真無垢なリリーであって、薄汚れたマグダレーナではない。
「お嬢様…違うんです…!俺は…っ」
彼女は彼の腕をそっと払った。
もうその腕に力は残っておらず、彼女の細い腕でも簡単に払える。
「勇者様、あなたがもういない少女の幻想を追い求めていたのと同じように、私もあなたに幻想を抱いていたようですわ」
「幻想…?」
覚悟を決めながら、それでもどこかで期待していた。
いつか、初恋の彼が迎えに来てくれること。
そしてこの泥の中から引き揚げて、今の自分ごと「生きていてくれてありがとう」と愛してくれること。
だからこそ、辛くてもここで生きることを選んで、待っていたのだ。
けれどそれはおとぎ話に過ぎなかったと、彼女は理解した。
待ち焦がれていた人がやっと来てくれたと思ったら、「昔のリリーじゃない」「穢れた」と言われて、初恋と微かな希望にとどめを刺されたのだから。
「さようなら、勇者様。もうお会いすることはないでしょう」
「違、俺は…」
「…私はマグダレーナですわ」
彼女は勇者の背中を見送りもせず、客の手を引いた。
「楽しみましょう?」と妖艶に微笑みながら。
リリーでなくなった彼女は、こうやって生きていく。
彼は確かに来てくれた。けれど、遅すぎた。
「彼が今の私を愛せないように、私も今の彼を愛せない」
――「絶対迎えに行くよ」と「迎えに来たよ」の間。
待つ時間はあまりに長く厳しく、お互いが抱いていた幻想は、泥水に溶けて消えた。




