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勾留期間          :約5500文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/03/22

「君……とんでもないことをしてくれたね……」


「ほ、本当に、大変申し訳ございませんでした!」


「もういいから。何度謝られてもね……」


「すみません……」


 おれは深く頭を下げたまま、喉の奥からかすれた声をなんとか絞り出した。

 やってしまった――その言葉だけが、頭の中でガンガンとぶつかり続けている。

 取引先との契約書の作成を任されたのだが、納期の記載を誤記してしまったのだ。結果、先方のスケジュールに大きな狂いが生じ、違約金まで発生させた。そのうえ、長年築いてきた信頼関係に亀裂が入ってしまったらしい。

 何度も見直したはずなのに……なんて、言い訳など口にできるはずもなかった。

 床のシミが、やけにくっきりと浮かび上がって見えた。


「ついてきなさい」


「はい……」


 おれは上司の後ろについて歩き出した。視線はずっと上司の背中に向けていたが、それでも周囲の気配は嫌でも伝わってきた。哀れみか、あるいは軽蔑か――。同僚たちの刺すような視線を、全身でひしひしと感じた。

 今年に襲われ、足先にうまく力が入らなかった。


「処分が決まるまで、ここで待つように。いいね?」


「はい……」


 ドアが閉まった。その音がやけに硬く、冷たく響いた。外のざわめきがすっと溶け、上司の足音が遠ざかっていった。

 おれは肺に溜まった空気を吐き出し、部屋の中を見回した。

 八畳ほどの広さだろうか。折り畳み式の長机が三つ、壁際にパイプ椅子がいくつか重ねて置かれている。床はチャコールグレーのカーペット調。

 初めて入る部屋だが、会議室として使われているのだろう。窓はなく、蛍光灯の白い光だけが天井から降り注いでいる。

 ここで裁きを待て、ということか。

 おれはパイプ椅子を引き、腰を下ろした。そのまま机にうつ伏せになり、長く息を吐いた。

 時間がねっとりと粘つくように流れていく。

 秒針の音すらない。耳鳴りのような静寂が重くのしかかってきた。

 おれはただ待つことしかできない。ただ待つ……待つ……待った……待ち続けた……。



 ◇ ◇ ◇



 ……どれくらい時間が経っただろう。

 おかしい。部屋には時計がなく、スマホもデスクに置いてきてしまったため正確な時間はわからないが、体感ではもう数時間は過ぎている気がする。

 それなのに、誰も来ない。

 おれはゆっくりと体を起こし、椅子から立ち上がった。ドアへ歩き、そっとノブを回した。


「……あ、おい! 何してるんだ!」


「あ、す、すみません!」


 ドアを開け、廊下を覗いたその瞬間だった。廊下の向こうから上司が慌てた様子で駆け寄ってきた。なぜか手にバケツを持っており、走るたびにそれが体に当たり、乾いた音を立てていた。

 なんという間の悪さだ。おれは慌てて頭を下げた。


「出るなと言っただろう」


「すみません……でも、その、何をされているのか少し気になってしまって……」


「何……?」


 上司の眉間に、ぐっと皺が寄った。


「まさか、遅いとでも……?」


「あ、いや、とんでもないです!」


 おれは慌てて首を横に振った。上司は腰に手を当て、深いため息をついた。


「今、責任の所在を話し合っている最中だ。決まるまで絶対に部屋から出ないように。君に本当に反省の意思があるのならな」


「あ、はい……それはもちろん……」


 上司はふんと鼻を鳴らし、バケツをおれの胸に押しつけた。そのまま踵を返し、のしのしと廊下を歩いていく。

 おれは両手でバケツを抱えたまま、しばらくその背中を呆然と見つめていた。やがて、上司の姿が曲がり角で消えると、静かにドアを閉めた。

 おれはバケツを机の上に置き、再び椅子に腰を下ろした。


「でも、このバケツは……?」


 横目でバケツを見つめる。大きなプラスチック製のバケツで、頭がすっぽりと入りそうなほど深い。

 掃除でもしていろということだろうか。だが中には水も雑巾も入っていない。

 まあ、後から持ってくるのかもしれない。おれはそう考え、立ち上がって壁際に寄り、バケツを手に持ったまま待つことにした。少しは反省しているように映るだろう。

 ……また何時間も待つのだろうか――そんな不安が頭をかすめた。

 だが、ドアは数分後に開いた。

 入ってきたのは上司だった。おれは表情を変えないよう意識しながら、胸の奥で小さく安堵した。しかし次の瞬間、上司が抱えているものを見て、思わず眉をひそめた。


「あの……それって、寝袋ですか……?」


「そうだ。長丁場になるからな」


 上司は淡々と言い、オレンジ色の寝袋を床へどさりと下ろした。それから肩を回し、大きく息を吐いた。


「え……ここに泊まれってことですか?」


「そうだ。……は? 君、まさか、嘘だろう? 帰りたいなんて言うつもりじゃないだろうね」


 上司が目を丸くした。冗談でも皮肉でもない、幽霊か妖怪でも見たかのような表情だ。おれは慌てて首を横に振った。


「そうだろう、そうだろう。食べ物は差し入れするから」


「はい、ありがとうございます……」


 何が『ありがとうございます』なのか、自分でもよくわからない。おれは小さく首を傾げながら、喉の奥に引っかかった疑問をそのまま飲み込んだ。


「じゃあ、この部屋から絶対に出ないように。鍵もかけるからな」


「はい……あっ、え?」


「ん? どうした」


「このバケツって、まさか……」


「トイレに決まってるだろう。じゃあな」


 上司はさも当然のことのように言い、振り返りもせず部屋を出ていった。ドアが閉まり、金属の鍵の回る音が、やけに長く耳に残った。

 ……いや、ありえない。こんなの、どう考えても異常だ。

 先方に土下座する覚悟はしていたが、まさかそれ以前の話とは。そもそも、いったい何時間話し合っているんだ。おれのミスはそれほどまでに重大なものだったのだろうか。しかし、ここまで長引くのは変だ――。

 疑念と自責が頭の中でぐちゃぐちゃに絡み合う。

 それでも、おれは待った。待つしかなかった。ひたすら待ち続けた。



 二日。四日。一週間……。

 まだ処分は告げられない。ドアが開くのは、食料がさっと放り込まれるときと、便の回収のときだけだった。

 便の処理は自分でやると何度も申し出たが、首を横に振られた。同僚に世話をされるほど屈辱的なことはなかった。情けなさだけでなく、申し訳なさすらあった。

 今、話し合いがどこまで進んでいるのか聞きたかったが、その時間すら与えられなかった。便の入ったバケツは、ドアのすぐそばに置いておく決まりなのだ。

 それでもあるとき、どうしても気になったおれは、バケツを少し離れた場所に置いてみた。


「……は? おい、クソ」


 おれは思わず「え?」と小さく声を漏らした。少しだけ開いたドアの隙間から、同僚の顔が覗いている。その冷たい目に、肩がびくりと跳ねた。

 今の『クソ』は糞そのものを指したのか、それともおれのことを呼んだのか。おれには判別がつかなかった。


「あ、あの……」


「ドアの近くに置いておく決まりだろうが……クソ。なんで俺がこんなことやらなきゃいけねえんだよ」


 同僚は吐き捨てるように言い、ドアを乱暴に閉めた。直後、廊下から激しく咳き込む音が聞こえてきた。

 数秒後、再びドアが開き、今度は同僚が中へ入ってきた。頬をわずかに膨らませている。どうやら息を止めているらしい。

 おれは彼に駆け寄った。


「い、今、話し合いはどうなってるんだ? 頼む、何でもいい、何か教えてくれ!」


「放せよ! くせえんだよ! なんでミスしたからって、こんな……クソクソクソ!」


 おれは突き飛ばされ、よろけて壁にぶつかった。同僚はバケツを掴むと、そのまま部屋を飛び出していった。すぐにドアが閉まり、鍵がかかる音が短く響いた。

 どうやら、何らかのミスをした者が、おれの世話係に回されるらしい。わかったのはそれだけだった。


「はは……」


 喉の奥で空気を擦るような笑いを漏らし、おれは壁にもたれかかったまま、ずるずると床へ崩れ落ちた。さっきの同僚とは何度も一緒に飲み屋に行った仲だった。それが今では、ただのクソとそれを処理する側だ。


 おれはもう一度笑おうと、喉に力を込めた。だが目の奥がぐっと熱くなり、ただ息を漏らすだけで終わった。鼻をすすると、かすかに汗とトイレのような匂いがした。



 ◇ ◇ ◇



 数か月が過ぎた。

 相変わらず、おれの処分は決まっていない。差し入れと便の回収。その二つが、ただただありがたかった。それがある限り、自分がまだ忘れ去られていないと確認できるからだ。

 食料の他に、本も差し入れられるようになった。漫画、国語辞典、漢字ドリル、自己啓発本、哲学書など。種類はばらばらで、こちらから指定することはできなかったが、読むものがあるというだけで時間の重さが少し軽くなる。

 差し入れられるのは一度に三冊までと決まっているらしい。差し入れ自体不定期だが、それが却って楽しみだった。

 ただし漫画は、なぜか一巻か二巻で止まっている。

 一度だけ、カウンセラーが来たことがある。眼鏡とマスクをした初老の男で、部屋に入った瞬間、露骨に眉をひそめた。たぶん、相当臭かったのだろう。

 いくつか質問され、おれは素直に答えていった。生い立ちや、ミスした当時の精神状態など。男は精神鑑定がどうのと言っていたが、その結果も知らされないままだ。もっとも、最初から期待などしていなかった。

 おれは待った。ひたすら待ち続けた。



 ◇ ◇ ◇



 一年が経った。正確な日にちはもちろん分からないが、それだけは確信できる。なぜなら、あるときから便を回収する顔ぶれが変わったからだ。

 そいつは見知らぬ若い男だった。まだ学生のような顔つきで、手つきもぎこちない。ドアの開け方もどこか遠慮がちで、さらに驚くべきことに、おれに軽く会釈したのだ。(もっとも、それも最初の二回だけだったが)

 おれは試しに一度、バケツをいつもより少し奥へ置いてみた。

 するとドアを開けた瞬間、その男は「えっ」と短く声を漏らした。顔をしかめながらドアの隙間から身を乗り出し、腕を伸ばしてバケツを取ろうとした。


「よお、新人か?」


 おれが声をかけると、彼はびくっと肩を震わせ、動きを止めた。それから目だけをこちらへ動かし、無言のまま小さく頷いた。

 上司に進捗を聞いてほしかったが、この部屋の空気を一呼吸でも吸うだけで激しくむせるようなので、たぶん無理だろう。

 おれは「そうか」と呟くだけにとどめた。新人はバケツを掴むと、逃げるようにドアを閉めた。

 がんばれよ――ふいにそんな言葉が脳裏に浮かび、おれは小さく笑った。


 いったい、いつ処分は決まるのか。一度だけ、上司自らが食料の差し入れに来たことがある。ファストフード店の紙袋を置き、上司はすぐにドアを閉めようとした。おれは慌てて駆け寄り、床に膝をついた。


「いったい、いつまでここにいればいいんですか!」


 おれは懇願するように訊ねた。すると、上司は眉をひそめた。


「君、まさか遅いとでも思っているのか……? 張本人のくせに」


「いや、でも……もう何か月も経ってますよね? なんで……」


「それだけ、君の犯した失敗が大きいということだ。影響は広範囲に及んでいて、どこにどれだけの被害が出るのか、まだ把握しきれていない。場合によっては政府にまで波及する可能性もある。だから処分を決めるにも時間がかかるというわけだ」


「だったら、もうクビでいいじゃないですか……ここから出してください……」


「君ねえ、私の話を聞いていたのか? ただ解雇すれば済む問題じゃないんだよ!」


 上司は大きくため息をつき、直後に激しくむせた。


「対処の仕方を慎重に検討しなければならないんだ。検討に検討を重ね、その検討をさらに加速させて……」


「え?」


「……とにかく、あれだ。今、陪審員を選定しているところだから」


「陪審員!?」


「それに、君を英雄化しようとする動きもあるし……世間の反応も……とにかく、待つように」


 上司はごにょごにょと濁しながら、さっとドアを閉めた。それきり、二度と姿を見せていない。

 いったい話はどこまで進んでいるのか。ひょっとすると、最初から何も話し合われていないのではないか。

 そんな疑念が芽を出し、胸の奥に根を張った。だが、確かめる術はない。何もわからない。何も……。

 おれは待った。待ち続けた。待った、待った……。



 ◇ ◇ ◇



「おい、やばいぞ!」

「え?」


 三年ほど経っただろうか、ドアが開いた直後、廊下を駆ける足音が響いた。どうやら外で新人たちが話をしているらしい。


「元総理が演説中に――」

「マジか!」


 ドアが乱暴に閉められ、二つの足音が慌ただしく遠ざかっていった。だが――鍵の音はしなかった。

 おれはしばらく動けずにいた。何が起きているのか信じられなかったからだ。

 やがて、おれは膝に手を当て、ゆっくりと立ち上がった。部屋の隅からドアへ歩み寄る。

 震えながらドアノブに手を伸ばした。

 開いている――。

 おれは静かにドアを押し開けた。廊下の空気が流れ込み、思わず口元が緩んだ。

 そして、おれは一歩を踏み出した。


 会社の外に出ると、陽光が容赦なく目を刺してきた。

 あまりの眩しさに眩暈がしたが、清々しい気分だった。胸の奥に溜まり続けていた膿んだ空気が、外へ抜け出ていく。

 ふと振り返ると、社屋は改築され、以前よりもずっと高くそびえていた。 


 おれは――人柱だったのだろうか。

 それとも、元総理の暗殺はおれのミスの延長線上にあったのだろうか。

 答えはわからない。何も。わからないままだ。

 だが、もう待つ必要はない。

 おれは歩き出した。

 歩いて、歩いて、歩き続けた――。

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