1話 ツィトローナ 2
侯爵家の広い庭は、ツィトローナが今まで住んでいたゼーゲルマン男爵家とは比べ物にならないほどに広い。
春の花々が夕日に照らされながら軍隊のように整列する様は、一目見ただけで脳裏に焼き付き、忘れることのない絶景であろう。
しかしながら、ツィトローナはそこまで意識を向けるほどの余裕はなく、ただ身を強張らせ握り拳を膝に押し付ける。
(侯爵夫人。どんな方かはわからないけど、怖い人じゃないといいなぁ)
馬車が停まるのを確認したツィトローナは、普段通りに馬車を降りようとしてから、一度留まった。
(いけないいけない。馬車は誰かに開いてもらって、降りなくちゃいけないんだった)
急いで座席に座り直すと、御者が扉を開けてツィトローナへと手を差し伸べる。
ニコリと笑みを向け、感謝の意を表しながらステップに足をかけると、板が脆くなっていたようで、ツィトローナは踏み砕いてしまう。
(ヤバっ!)
バランスを崩し転倒しそうになるツィトローナ。
御者の手を握れば転倒は免れるかもしれないが、相手に怪我をさせてしまうと考え、手を引っ込めては腕をつくようにして転倒した。
「ふべっ!」
腕と肘に伝わる痛みに泣き出したくなるツィトローナだが、「初日に転んで泣きました」なんて羞恥以外の何でもない。
泣きべそをかきながらも、震える唇を噛み締めつつ涙をこらえ、ゆっくりと上体を起こした。
「だ、大丈夫ですか、ツィトローナお嬢様!?」
「うん…大丈夫。大丈夫だから」
心配されたツィトローナは、自身の状態が良くないのだと自覚してしまい、恥ずかしさと痛みで涙が溢れそうになる。
(ダメ、泣いちゃダメだって)
堪えれば堪えるほどに感極まり、口元が歪んでいく。
決壊寸前のその時。
「これをお使いになって」
ふわりと舞う羽根のような声を辿るように視線を持ち上げたツィトローナの視界には、誰もが羨むほどに鮮烈な赤色の髪を揺らす、一人の少女がハンカチを差し伸べているではないか。
しかし、自身はまだ泣いていないと思っているツィトローナは、精一杯堪えて首を横に振った。
「違うわ。ここ、血が出ているのよ」
少女は自分自身の手を指さし、ツィトローナの出血箇所を示しながら、地面に膝を突きスカートの端を汚しながらハンカチで止血する。
派手な赤髪をした少女と比べると控えめなハンカチは、じんわりと血で染まっていく。
(なんかの、果物の香り?…落ち着くかも)
「深呼吸して、落ち着くから」
「は、はい。すぅー、はぁー」
少女のおかげで気持ちが落ち着き始めたツィトローナは、改めて少女の姿へ視線を向けると、自身より年上だとわかった。
小動物めいた丸顔には、クリっとした円らな眼が備わっており、それらがツィトローナの瞳をジィっと見据えている。
その双眸には同情といえるものはなく、凍てつく冬を彷彿とさせる、突き刺すような瞳が収まっていた。
(今まで会ったことのある誰とも違う感じだ)
「ありがとうございます、えっと…」
「私は――」
少女が名乗りを上げようとすると、玄関から一人の女性が姿を表し、彼女はまたたく間に血相を変える。
「この状況は一体、なにが!?」
「馬車のステップが壊れ、転倒してしまったようです。今、止血をしていますので、治癒魔法の魔法師をお呼びしてもらってもよろしいでしょうか?」
「既に使いを走らせています」
使用人が伝えると、女性は柔らかな表情で頷き、安堵の笑みを見せた。
「その、すみません…来たばっかりで、こんな」
「いいのですよ、ゼーゲルマン嬢。今日はもういい時間ですから、御者の方も本日は屋敷でお休みくださいね」
「えっ、あっはい。ツィトローナお嬢様、申し訳ございませんでしたっ!」
呆気にとられていた御者だが、彼は古くなった馬車のステップに気がつけなかったことを、頭を深く下げて謝罪した。
(…腹は立つけど、怒ったら子供みたいだ。ここまで運んでくれた小父さんも別に悪くないし)
「気にしないでください。私も気をつけるべきでした」
(あら)
(ふむ)
少女と女性は、ツィトローナの対応に小さく頷き、小さく微笑んだ。
「立てるかしら?」
「大丈夫です」
「でも手はお使いになってね」
「あ、ありがとうございます…」
先に立ち上がった少女は手を差し伸べ、ツィトローナを立たせてからスカートの汚れを落とした。
―
立ち上がったツィトローナは、女性や少女、出迎えに出ている一同へと向けて一礼をし、名乗りを上げる。
「私は、ヴェレンヴィント子爵領内ゼーゲルマン男爵家のツィトローナ・ゼーゲルマンです。これから行儀見習いとして尽力いたしますので、よろしくお願いしますっ!」
国内ではゼーゲルマン家にしか存在しない、竜人種との混血。
自己紹介の場では、必ず密々と悪しざまな言葉を投げかけられ、様々な感情の籠もった視線に刺されてきたツィトローナ。
しかし本日はそういった悪意のようなものを感じ取れない。
(受け入れて…もらえるのかな?)
いつまでも頭を下げているわけにもいかず、恐る恐るといった様子で姿勢を正せば、見定められるような視線が半分。
もう半分は、転んでしまった子供への同情と微笑ましさといったところ。
明確に悪意をもって、口元を覆う者はいなかった。
「私はリリアンネ・モルゲンレーエラント・シュタインフェステ、侯爵夫人にして屋敷を治める女主人をしております。今日この日をもって貴女は私の娘の一人となり、淑女としての教育を受けることとなりますが、覚悟はお有りで?」
豪奢な銀の髪に、清らかな泉を思わせる水色の瞳をした女性こそが、これからツィトローナが世話になる相手、リリアンネである。
(淑女になったって…魔導具技師になれやしない。でも帰った所で同じだし、逃げ道なんてないんだ)
ツィトローナは自身の無力さに、止血するハンカチを手放しそうになるのだが、『それでも』『もしかしたら』という思いを胸にリリアンネを見上げた。
「…頑張ります」
「よかったわ。今後はツィトローナさんとお呼びするので、私のことはリリアンネとお呼びくださいね」
「はい、リリアンネ様」
13歳。思春期真っ只中で両親に反発していた少女は、見知らぬ土地で見知らぬ人々に囲まれながら、確かに頷いた。
(そういえばツィトローナさんは…魔法や魔導具を勉強したいと、ラウラさんおっしゃってましたね。お勉強が順調そうなら、手ほどきをできるように準備をしておきましょうか)
旧友であるツィトローナの母から、彼女の状況を知らされていたリリアンネは、小さな優しさを胸に秘める。
本人の知らない所で。
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