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「痛っ」
湊の声に現実が蘇る。
「どうした?」
「なんか、水が上から降ってきて」
指先がパックリと開いて、マグマのように赤い血が溢れ出していた。
「……水でこんなに切れるわけないだろ」
「そうなんだけど、じゃあなんで切れたんだ?」
「乾燥してたんじゃないのか?」
「冬ならわかるけど、夏だぞ今」
湊が指先を見つめながら首を傾げる。指先は、汗なのか水なのかわからない液体と血でぬめっていた。確かに皮膚は乾燥しそうにもない。
「とりあえず、血を止めないと。指先大事にしろよ」
リュックの中から絆創膏を探す。その間に湊にハンカチを投げて止血するように促す。
あいつのリュックにはレシートのゴミと財布しか入ってない。無駄な布の塊なので自分で処理するのを期待するだけ無駄である。たまに財布すら忘れてくるから俺の財布はいつも2人分の金が入ってる。
ポーチから絆創膏を取り出して、湊に渡そうと前を向くと、湊はハンカチも当てずに血を床に垂れ流したまま虚空を見つめていた。
「おい、ちゃんと止血しろよ」
イライラしながら言う。その恵まれた手を大事にしない理由がわからない。この世の大凡のものより価値があるのに。
「……雨の音がする」
ぼんやりしたような困惑したような声で湊が呟く。
「雨?」
そんな音は聞こえない。湿気を帯びた空気はあるが、それは雨がつれてくる新鮮な湿り気ではなく、夏の熱気とともにビルに閉じ込められたほこりっぽくこもった湿気だった。
「上からしてる気がする」
湊が指から血の雫を溢しながら、階段を登っていく。
「お、おい!どうしたんだよ」
足が速い自信はあるが、湊はもっと速い。
引き止めようとした手は虚空を掴んだだけだった。
慌てて、階段を駆け上がり追いかける。
下層では薄暗かった窓から一転して上の階では繁華街の騒めく光が漏れ入り明るく照らされていた。
……やっぱり雨は降ってない。
遠ざかっていく足音を追うのを諦め、点々と床に落ちている血の雫をたどる。
嫌なヘンゼルとグレーテルだ。
辿り着いた先にはお菓子の家なんてない。
様子がおかしくなった親友だけ。
4階だろうか。
いくつもの階段を駆け上がった先、廊下の奥に湊はいた。ひしめく看板の極彩色の光に照らされながら扉の前でぼんらりと佇む湊が。
無表情で佇む姿なんて数えるぐらいしか見たことがない。
声をかけるか一瞬ためらい、音になり損ねた曖昧な声が床に砕け散った。
それでも、俺が来たのに気づいたのかゆっくり振り返った湊の顔は青ざめ虚な瞳に陽気な居酒屋の赤い光が混じっていた。
「どうしたんだよ急に」
「透真……。なぁ、なんか変、変だよ」
怯え切った声だった。哀れなほどに。
「ここ、なんか急にめちゃくちゃ寒くなったよな?夏だけど冬みたいだよな?雨の音もすごいし寒いのは当然だよな?なぁ?なんで雨が降ってるんだ?」
「……湊、落ち着けよ。俺のせいでおかしな場所に連れてきて悪かった。でも外見ろよ誰も傘さしてないし、コートも着てないだろ」
「俺がおかしいのか……?やめろよ、お前だけは、俺が正しいって言ってくれよ!お前もみんなと同じように無視するのか?ただいるだけなのに」
「おい、落ち着けって。お前のこと無視したことなんてないだろ。とりあえず床に座って水飲めって。な?」
無表情で脈絡なく呟く湊を埃の絨毯の上に座らせ、水を渡す。湊の手が無様なほど震えてる。
あの時みたいだ。才能に溢れた湊に周囲が嫉妬して存在しない生き物として扱われてた頃の湊だ。




