転落
先輩の自慢話を聞き流しながら時計の針を見つめ続けるような退屈な飲み会の後。
話し声と笑い声に包まれざわめきが街を満たす中、先輩の一人が急につぶやいた。
「なぁ、雨降ってね?」
「えっ、でも晴れてますよ?」
空を見上げると、月に負けずと輝く夏の大三角形がよく見えた。
「そんなはずねぇって。ほら、雨ついてんだろ。」
差し出された腕には、一粒も水滴などついてなかった。なぜか薄っすらとした傷から血がのぞいていたが。
先輩、飲み過ぎなんだろうか。
そういえば、パカパカと何杯もハイボールを空けていた気もする。
酔っ払いのことだ、どこかでぶつけたのだろう。
「先輩、飲み過ぎですよ。上見てください、雲なんてないですよ。」
指を指す方向にのろのろと先輩の頭がもたげる。どう見ても酔ってる人間の仕草にしか見えない。
しかし、先輩は空を見る前に違うものが目に入ったようで空を見上げることはなかった。
「おい、透真。あんなところに女がいるぞ!」
急に興奮し、急に肩を組んできた先輩が廃ビルの二階の窓をさす。……薄汚い、ヒビが入った窓ガラスしか見えない。本格的に酔ってる人間の相手をしないといけない現実にこっそりため息が漏れ出る。
「先輩、そのビル建て替え中ですよ。そこに立ち入り禁止の看板出てるし、そんな場所に誰かいるわけないじゃないですか。」
「そこいんだろ!お前こそ、さっきからふざけてんのか?」
「……飲み過ぎですよ。水買ってきますよ。」
熱すぎる酔っ払いの体を押し除けながら、自販機を探す。その間に、酔っ払いは他の人にも女の話をしているようだった。
自販機に吸い込まれていく小銭達が返ってこない事を嘆きながら、出てきた水のボトルを掴み、先輩の元に戻る。
誰も相手にしないだろうと思っていた予測とは裏腹に場は盛り上がっていた。
「マジでいたんだって、女があそこに!」
「嘘だろ?その女、可愛かった?」
「いくら可愛くても、やばいだろ。そんなとこいる女。」
「ほら、今もいるって。顔は見えないけど体はなんか濡れててエロい感じだな。」
「何で濡れてんだよ。こわっ。」
酒にうかされた空気の中、ふざけ合う声がからかう声から戸惑いに移り変わる。
「……幽霊?」
誰かが不安げにポツリと言った言葉が思いの外、大きく響いた。
「そんなわけないだろ!こんなにはっきり見えんのによ」
「でも、お前しか見えてないぞ。なあ、みんな。」
皆、顔を見合わせて首を傾げる。
その様子に腹を立てたのか、スマホを握りしめて先輩が言う。
「じゃあ、俺が今から証明するわ。中に入って女を捕まえてく。」
一線を超えた発言に気まずい沈黙が落ちる中、躊躇いながら口を開く。
「先輩、立ち入り禁止ですし、危ないからやめましょう。水も買ってきましたよ。」
ゆっくり、宥めようとしたが失敗したようだ。酔いの回った充血した目がギロリと向く。自販機に支払った120円は無駄になった事を悟る。
「透真、お前いつもいい子ちゃんぶりやがって。お前が俺のこと馬鹿にしてるのはわかってんだよ。」
「そんなつもりはないですけど。」
吐き捨てるように言う。嫌悪感に満ちた気持ちは隠しきれただろうか。下品で悪態ばかりつくこの先輩のことは嫌いだ。
それでも、万が一でも本当に女性がいるなら理性を失った先輩にどんな目に遭わされるかわからない。野放しにはできなかった。
自分が見捨てたせいで誰かが傷つくーーそんな想像だけで透真は押し潰されそうになる。閉じ込めてた記憶の扉が軋んだ気がした。
「どいつもこいつも馬鹿にしやがって。お前ら見とけよ。絶対、あの女を引きずってくるからな」
緊張に満ちた睨み合いの末に、先輩は口角に泡を飛ばし喚き、乱雑に立ち入り禁止の扉を開き闇の中に消えていった。




