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意識を失い、力を失った湊の体をどうにか背負う。氷の塊を背負ってるみたいだ。
微かな吐息だけが湊が生きていることを教えてくれてる。その吐息が、直ぐにでも失われることも。
湊を背負いながら外をチラリと見る。相変わらず窓の外は雨粒ひとつ落ちていない。夜空には満月が悠然と輝いている。
なのに、月明かりと看板の光に照らされたビルの中だけがバケツをひっくり返したような雨に襲われてる。どの階にいても逃げられない。
息を吸うたび冷たすぎる空気が肺を刺す。夏なのに。入った時はあんなに埃っぽかった匂いが今や寒さのせいで消え去っていた。
冷え切ったノブを回して廊下に出る。
鋭い雨粒が襲い掛かり目がかすんで廊下の先がよく見えない。……女が近い。
階段はこっちであってるのかすらわからないが、進むしかない。焦る気持ちと反して水で滑る床に苦労しながらなんとか階段の踊り場に辿り着く。
滝のように水が流れ落ちる階段に慎重に足をかける。湊を背負ったまま登ろうと下を向いた瞬間ーー
白い塊が急に上から滑り落ちて来た。
いきなり現れた物体を避ける間もなく、俺の体は床に叩きつけられた。
「うわっ」
倒れ込んだ水浸しの床に、浮かぶパサついた金髪。バイト代で買ったと自慢してた有名ブランドのTシャツ。青ざめるを通り越して白すぎる肌に虚ろな瞳。
「せ……先輩?」
肩を揺すっても、瞬きひとつしない。
死んでる?
いつも、嫌味ばかり言う嫌な先輩だった。わざわざ俺に湊の悪口を告げ口して、反応を楽しむような。
それでも……、それでもこんな理不尽な結末を迎えるに相応しい人でもなかった。
呆然と閉じることのない瞳を見つめることしかできなかった。
轟音を奏でる雨音の中、微かに湊の呻き声が耳に届く。
そうだ、湊。
なんで忘れてたんだ。
辺りを見渡し、先輩の死体からすぐ近くに湊らしい姿が倒れ込んでるのを見つけ、ほっとする。
「湊!だいじょ……」
派手な赤いスニーカーに白い女の足。
呼吸が、止まる。
まるでそこに居るのが当たり前のように佇んでる。
音も、匂いも気配もなく。
雨を引き連れた女が湊の前でゆっくりと屈む。
何か取り返しがつかないことが起きてる。
女は微笑みながら血の気の引いた湊の頬を撫で、首を伝い胸まで指先を滑らせる。そのまま、服を巻き込みながら心臓部に指を突き立てた。
隙間に差し込むように手だけが沈み込んでいき、何かを探るようにかき混ぜる。肉体を突き破っているのに、血の匂いすらしなかった。まるでただの水に手を浸してるようだった。
気絶してるはずの湊の指先が微かにもがく。ささやかな抵抗に気づいたのか女は、愛しげにその手を絡め取った。
やがてゆっくりと、湊の胸から何かを掴んで引き摺り出す。女の奇妙なほど紅い唇が歪み、そこから伸びた舌がそれを絡め取って喉に飲み込まれていった。
食事を終えて、唇を舐めながら顔を上げた女が目を細めて微笑む。
「あ……」
目が合ってしまった。
自分の番だ。
ほんの数秒のはずが恐ろしく長い時間、女と見つめあった気がする。
まつ毛に溜まった水が瞳に溢れ落ちて視界が揺らぐ。風景と女があやふやに混じり合う。まるで世界がとろけていくようだった。
急に瞬きするのを思い出し、瞳から水が落ちて視界が晴れた時には女も雨もなくただの廃墟に戻っていた。ずぶ濡れの先輩の死体と倒れ込んだ湊を残して。
二人とも起き上がりも、喋りも、見つめもしないのに、何もできなかった見てるだけの臆病者の俺を非難しているようだった。生き残るべきじゃなかった俺を。
雨が去って、急にまとわりつくような夏の熱気を孕んだ空気が肺を燃やすように刺激する。
急激な温度変化に、眩暈が止まらず床に崩れ落ちる。薄闇の中、遠くから柔らかで悲しげな声と拗ねたような声が響いた。
「ああ、やっぱり。神域が閉じちゃったね。残念だ。」
「ちぇ……。食べられると思ったのに。腹減ったな」
神域?食べ物?あの女の仲間なんだろうか。
知りたいことは山ほどあるのに、意識は氷が溶けるように闇にゆっくり沈んでいった。




