1突然の再会
「えっ、私、ここに住めないんですか!?」
遠野楓、二十七歳。色々とあって勤めていた会社を退職し、心機一転引っ越しして新居に住むはずだったのだけど……。
「本当に申し訳ありません。まさか既に住人がいる部屋をおすすめしてしまっていただなんて!本当に、本当に申し訳ありません!」
電話越しに、不動産屋の担当者さんが大声で謝っている。忙しさにかまけて物件を下見もせずネットで即決した部屋だったから私もキツく責めることは言えないけど……渡された鍵をドアに入れても鍵が開かなくて担当者さんに電話してみたら間違いで住めないって、これからどうしたらいいんだろう。他の住める部屋を紹介してくれるのかな。
今まで住んでいた部屋の退去日は今月いっぱいだからかろうじてまだ住めるけど、来週には退去日が来てしまう。それまでに新しい部屋が見つかるとは限らない。
とりあえず荷物だけ運んで、住むのは来週からと思っていたから水道や電気も電話をしていなかったのが悪かったのかも。電話をかけていれば、この部屋が既に電気も水道も通っていて使われているってわかったはずなのに。それにしても、こんなこと現実に起こるわけない、小説とかドラマの中だけだと思ってたよ!
「あの、俺の部屋に何か?」
ふと声がして横を見ると、一人の男性が不審な顔で私を見ている。パチリ、と目があって、その男性は目を大きく見開いた。
「え?楓?」
「……嘘、響お兄ちゃん!?」
その顔を見間違えるはずがない。大学生の頃に親が離婚してそれっきり音信不通だった元義兄の響。そういえば今日は休日だからお仕事お休みだったのかな。サラサラな黒髪にラフな格好で買い物袋をぶら下げている。
響お兄ちゃんと初めて出会ったのは、高校一年になる春の頃だった。中学生の時に両親が離婚して私は母親に引き取られ、高校一年の時に母親が再婚し、響お兄ちゃんは再婚相手の連れ子だった。五歳上の響お兄ちゃんは当時大学生だったけど、一緒に暮らすようになってからは家を空けがちな両親に代わり、とても可愛がってくれた。
結局、私が大学生の時に母と響お兄ちゃんのお父さんは離婚したので、私たちはもう戸籍上でも兄妹ではない。
「えっ、どうしてここに?」
「それはこっちのセリフだよ。なんで俺の部屋の前にいるの?」
驚きながらもお兄ちゃんは優しく声をかけてくれる。ああ、なんだ、昔とちっとも変わってない。あ、だめだ、お兄ちゃんの顔見たら、声を聞いたら、急に心が……。
「は?え?ちょっ、待って!?なんで泣くの!?」
響お兄ちゃんは慌てて私に駆け寄ってきた。ごめんね、お兄ちゃん、相変わらずこんなダメダメな妹で。ああ、久々の再会がこんな形になるなんて、ほんとうについてない。
*
「なるほどな、ここを紹介されて住む予定だったけど、既に俺が住んでいて楓は住めないと。それでドアの前で途方に暮れてたのか」
思わず泣き出してしまった私を響お兄ちゃんは部屋に招き入れてお茶を出してくれて、私はようやくほっと一息ついてことの次第を説明することができた。お兄ちゃんは私の話を聞いてふむふむと頷く。
「不動産屋さんはなんて?」
「とりあえず他に似たような物件がないか確認しますっては言ってくれたけど、すぐには難しいんじゃないかなって思う」
引っ越しシーズンは終わっているけれど、まだ物件が少ない時期だ。似たような物件なんてどこもかしこも埋まってそう。
「確かにな……」
「来週までに新居が見つからなかったら、当分はネカフェ生活するよ」
そう言って私は小さくため息をつく。友人はほとんどが既婚者、もしくは同棲中。きっと助けてって言えば快く泊まらせてくれるだろうけど、仲睦まじい家族や二人の家にホイホイと転がり込むほど私の心臓は今強くない。ネカフェ生活はお金がいつまで続くかわからないけど、現状それしか方法がないと思う。
「だったら、ここに住めば?」
「……はい?」
お兄ちゃんの口からでた言葉に、私は耳を疑った。キョトンとしてお兄ちゃんを見ると、さも当然だというような顔で私を見ている。え、どういうこと?
「いく宛がないなら、ここに住めばいい。そもそも不動産屋には手違いとはいえここを勧められたんだろ?それに俺と楓は元々義兄妹なんだし、一緒に住んだことがあるんだから生活も一緒にやっていけると思うんだ。ここは部屋数も多くはないけどまああるし、楓一人なら一緒に住めるよ。二人暮らしも禁止されてない物件なはずだから大丈夫だと思う」
スラスラとお兄ちゃんの口から言葉が出てくるけど、私はそれを飲み込むのに時間がかかった。え?二人暮らし?お兄ちゃんと?ここで?
「え?えええ?いや、それはちょっと流石にダメじゃないかな?……あっ、そうそう、お兄ちゃん恋人はいないの?もしいたら、ほら、流石に妹といえど迷惑でしょ?私も気を使うし」
そう、お兄ちゃんに恋人がいたら問題だ。妹と言っても血は繋がっていないし、ここにもし恋人がやってくることがあればお互いになんか気まずい。そんな私の思考を見透かしたように、お兄ちゃんはフッと笑った。
「恋人は今いないよ。だから何も気にしなくて大丈夫だ。楓こそ、こういう時に頼れる恋人はいないのか?」
「恋人は……いない、よ」
私の心にじんわりと黒い水滴のようなものが広がっていく。恋人、なんて今は何も考えたくない。お兄ちゃんから目を逸らして机をじっと見つめると、お兄ちゃんが小さく息を吐くのが聞こえた。
「……そうか。それなら何も問題ないな、一緒に住もう、それがいい。俺はずっといてくれても構わないけど、そうだな、楓的にずっとは無理だと思うなら、新しい物件が決まるまではここにいればいい。あ、そういえば仕事は?勤めてるんだろ?」
「えっと、実は色々あって前の会社を辞めたんだ。在宅でできる仕事をしたくて、今は駆け出しのライターやってるよ」
「……そうなのか。まあしっかり者の楓だから心配はしないし、ちゃんと食べていけてるなら問題ないな」
普通ならどうして辞めただのそんなのでちゃんと生活できるのかとか聞いてきそうなのに、お兄ちゃんは気を使って踏み込んでこない。多分、私のさっきの様子からそうしようと思ってくれたんだと思う。お兄ちゃんは昔から他人の些細な気持ちを汲み取って気遣いをしてくれる人だ。
何も変わってないんだ。私の大好きな、憧れのお兄ちゃん。
「それにしても、楓が俺の部屋の前にいた時はびっくりしたよ。こんなにすごい偶然あるんだな。……まさか、俺が恋しくなって会いに来たとか?」
ニヤリ、とお兄ちゃんは揶揄うような顔で私を見る。うわ、そういうところも全然変わってない!
「なっ、えっ、違う!本当に偶然だよ!お兄ちゃんがここに住んでるの知らなかったもん!そもそもお母さんたちが離婚してからずっと音信不通だったでしょ」
慌てて否定すると、お兄ちゃんはふーんというつまらなそうな顔をして机に肘をついた。
「なんだ、違うのか。可愛い妹はてっきりお兄ちゃんが恋しくなって会いにきたのかと思ったのに」
「だから!違うってば!」
ああ、どうしよう。絶対顔が真っ赤になってる。手のひらでパタパタと顔を仰ぐと、お兄ちゃんはニイッと嬉しそうに笑った。
「まあいいや。とにかくそういうことならますます好都合だ。一緒に住もう、楓」