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3話

(うぅっ、久し振りに馬車に乗ったから気持ち悪い……)




明朝、ソフィー曰く似合わない流行遅れのダサいドレスに身を包んだナディアは、15年振りに邸宅の外に出た。シュペルツ侯爵が用意したランクの低い安い馬車にソフィーと乗り、誰の見送りもないまま、しんと静まり返った邸宅を出発した。




ハウゼン男爵邸のある中央都市ベルヴィーに近づくにつれて徐々に恐怖心が増していく。


そこに、板のように硬いシートと、激しい揺れによる乗り物酔いが加えられ、ナディアの顔は青ざめていた。




「ナディア様、少し休憩致しますぞ」




ソフィーが御者に馬車を止めるよう言ってくれたおかげで、外の空気を吸うことができたナディアは、少し気分が晴れてきた。




「ふぅー」




「あと少しでベルヴィーに着きますぞ」




「ええ。あっ、向こうに海が見える。初めて見たわ」




丘の上から見える海は、太陽が反射してキラキラ宝石のように輝いている。


ナディアは、母の故郷も海の近くにあると聞いたことを思い出した。




(お母様もこんな光景を見て育ったのかもしれない。せっかく美しい景色が見える所に来たのに、私はあとどのくらい見ることができるのかしら。ハウゼン男爵が身代わりのことを知ってお怒りになったら……)




「殺しちゃうかもね」




タリアの囁き声がよみがえる。




「やっぱり殺されるかも。殺されなかったとしても、みすぼらしい亡霊(令)嬢とは結婚を続けられないって離婚を切り出されるかもしれないわ」




「帰る場所はないと思え」という父の声が、ナディアの心を締め付ける。




「ナディア様、私がお守りするので大丈夫ですぞ」




ソフィーの手がそっとナディアの両手を包み込む。さーっと爽やかな風が吹いて、心にかかっていた黒いもやが消し去っていく感覚がした。




「ありがとう、ソフィー。でも、私をかばってソフィーが傷つくのは嫌よ。命の危険を感じたら私のことはいいから逃げてね」




「それは致しかねますぞ。主をおいて逃げる私ではございませぬ」




「そう言うと思ったわ。私はもう大切な人を亡くしたくないの。私もソフィーを守るわ」




「そのお言葉だけでも感謝致しますぞ」




「本気で言ってるんだけど」




ソフィーは珍しくふふっと嬉しそうに笑って、ナディアと馬車に乗りこんだ。






馬車は海沿いを走り抜け、小高い丘を登り、森の中へと入って行く。てっきり海の近くに邸宅があるものだと思っていたナディアは気持ちが沈んでいき、ソフィーによって勇気づけられた心が再び不安と恐怖に縛られていった。




空が茜色に色づき始めた頃、ようやく馬車はハウゼン男爵邸の前まできた。背の高い鉄格子の門の前に門番が2人立っている。御者が声をかけると、門番は頷いて門を開けた。


馬車はゆっくり中へ進んでいく。色とりどりの花が植えられている色彩豊かな庭園を通り過ぎ、レンガ造りのアーチ状の屋根がついているエントランス前で止まった。




ドクドク、バクバク。




自分の心音が外に聞こえるのではないかと思うほど、ナディアの緊張は最高潮に達していた。


先に降りて馬車の扉を開けたソフィーの手を取り、震える足をなんとか動かして馬車から降りた。




顔を上げた先には、初めて目にする仮面男爵の姿があった。銀糸で刺しゅうされた蔦模様の仮面が顔半分を覆っている。


タリアの言っていたとおり長身で、ナディアが横に並んだら仮面男爵の肩までしか届かなさそうで、圧迫感を覚える。




「ようこそ、ハウゼン邸へお越しくださいました」




仮面男爵は恭しく長身を折り曲げ、癖のないダークブラウンの頭を下げた。




「あ、あの、実はっ」




ナディアが正直に事情を打ち明けようとした時、頭を上げた仮面男爵が、思ってもいないことを口にした。




「主がお待ちです。ご案内致します」




(主? この仮面男爵がハウゼン男爵様なのよね? 聞き間違いかしら?)




ソフィーに目を向けると、すっと手を前に出して先に行くよう促される。


ナディアは困惑しながら仮面男爵に続いて邸宅の中へ入って行った。




エントランスホールでは、エントランスの扉から上階に続く階段の下までレッドカーペットが敷かれ、その両脇に男女の使用人がずらっと並び、頭を下げている。


慣れない待遇に居心地が悪くなり、ナディアは俯いた。




(今すぐ使用人服に着替えてこの列に加わりたい……)




ナディアは居たたまれない気持ちで、仮面男爵に続いておずおずと階段を上っていく。


二階には、広い廊下を挟んで両側にいくつか部屋が並んでいる。奥には右に曲がる角が見える。角に近い一番奥の右側にあるクルミ色の両開きの扉の前で仮面男爵は立ち止まり、ナディアの方を振り向いた。




「こちらのリビングルームで、主のレイヴノール・ハウゼン男爵がお待ちです」




(主のレイヴノール・ハウゼン男爵? この扉の向こうに本当のハウゼン男爵様がいらっしゃるということ? なら、この仮面を被った方は一体……?)




困惑しているナディアをよそに、仮面を被った男性はコンコンとノックをし、室内にいるであろう本物のハウゼン男爵に声をかけた。




「シュペルツ侯爵家のご令嬢が、ご到着致しました」




中から声が聞こえる前に、扉が勢いよく開かれた。




「いらっしゃい! うわあ、本当に来てくれたんだ!」




海のように深い青色の髪をした10歳ぐらいの男の子が、元気よく飛び出てきた。




「えっ?」




男の子は髪と同じブルーの目をキラキラさせて目を丸くしているナディアを見つめた。


白を基調として青色のボーダーの入ったセーラー服に、水色のショートパンツ、頭にはちょこんとセーラーハットがのっている。




(まさか、この子が本当のハウゼン男爵?!)




極度の緊張状態から理解が追い付かない状況に、ナディアの頭は混乱する。


ソフィーが仁王立ちをして男の子を睨みつけた。




「無礼者め」




仮面男爵が男の子の頭をガツンと拳で殴る。




「いったー! 殴ることないじゃん。あ、ボク、ウンディーネ。よろしく」




(ハウゼン男爵様じゃなかったのね)




ナディアがほっと胸を撫で下ろした。




オッホン、ゴホン。




咳払いする音が室内から聞こえ、皆がそちらに目を向けた。


窓際の机の前に立っている、仮面の男性と同じく長身で、ふんわりとしたネイビーブルーの髪色に、美しい顔立ちの男性が口を開こうとする。だが、男性の横に立っている妖艶な女性がナディアに近づき、先に声をかけてきた。




「まあ、可愛らしいお嬢さん。レイ様にはもったいないわぁ。そのドレスは、似合ってないけどぉ」




真っ赤な髪が、体のラインが分かる深紅のドレスにさらっと流れていく。ナディアは自分を見つめてくる宝石のようなルビー色の目に吸い込まれそうだった。




「セラフィナ、今のは俺がしゃべる番だろ!」




ネイビーブルーの髪色の男性が、セラフィナに声を上げる。仮面男爵が仮面を外し、髪色と同じダークブラウンの瞳を細めて呆れた表情を浮かべた。




「主の威厳が足りないからだ」




さっきまでの丁寧な口調が一気に崩れ、ナディアには仮面の男性が別人のように感じられた。


ソフィーは、このまとまりのない様子を冷たい表情で見つめている。




「お前たち、ちょっと黙っててくれ。ご令嬢、失礼しました。色々困惑しているでしょうが、実は私がレイヴノール・ハウゼン男爵なのです。仮面を被っていたのは私の補佐官のディランで、表に立つことは全て任せているのです。身代わりのようなものでして」




身代わり。その言葉にナディアの心臓がキュッと縮まり、反射的に口を開いていた。




「ハウゼン男爵様、既にお気づきかと思いますが、私はタリアではありません。ナディア・シュペルツ、シュペルツ侯爵家の長女なのです。父が騙すようなことをしてしまい、申し訳ございません!」




ナディアは考えるより先に体が動き、気づいた時には深々と床に頭をつけて土下座をしていた。




「お怒りかと思いますが、どうか命だけは! 使用人でも何でもします。厚かましいかと思いますが、お傍に置いてください!」




いつハウゼン男爵の怒りが爆発して殺されるか分からない恐怖に怯えながらも、ナディアは声を震わせながら言い切った。




「ナディア嬢、顔を上げてください。あなたを使用人として扱ったりしません。ましてや殺すなんて!」




ハウゼン男爵の焦った声に、ナディアはゆっくりと顔を上げる。サファイアの宝石のような澄んだ青い目が困惑の色を浮かべ、手を差し出す。その手を取り、ナディアは立ち上がった。




「シュペルツ侯爵家のご令嬢であれば、タリア嬢でなくとも婚姻関係は継続するつもりです。それに、私の秘密を知ってしまったのですから、この屋敷に留まってもらわないと困ります。もちろん、使用人ではなく、男爵夫人としてです」




「本当に、いいのですか?」




「もちろんです。婚姻誓約書には既にシュペルツ侯爵様のサインを頂いています。今日から私達は……」




レイヴノールは顔を赤らめて、咳ばらいをする。ウンディーネとセラフィナが、くすくすと笑い合っている。




「えー、ですから、まあ、書類上の話でいうところの、夫婦になるわけで」




「主、ナディア様はお疲れの様子だ。下手な説明はその辺にしておけ」




ディランの言葉の刃が、レイヴノールの胸に突き刺さった。




「うっ、下手な説明……。セラフィナ、ウンディー、ナディア嬢に部屋を案内してくれ。ナディア嬢、今日はゆっくり休んでください」




「こっちだよー!」




「あっ、はい」




ウンディーネがナディアの手を引いて歩き出す。




「あなたもついてきてねぇ」




セラフィナがソフィーに目を向ける。




「言われなくとも、ナディア様のお傍は離れぬ」






ウンディーネとセラフィナに案内された部屋は、レイヴノールの寝室の隣で、室内のドアを使って行き来できるようになっている。


奥のドレスルームや浴室を合わせると、タリアの部屋の倍はある広さで、天蓋付きベッドにフカフカのソファ、テーブルやキャビネットなどどれも高級で品の良い家具が備え付けられている。




「気に入ったかしらあ?」




セラフィナに尋ねられたナディアは部屋を見回しながら頷く。




「はい、とっても素敵です。本当に私が使っていいのですか?」




「もちろん!」




「ナディア様。お部屋観賞はその辺にして、湯浴みをして旅の疲れを癒しますぞ」




「でも、湯浴みは昨日シュペルツ家で」




「あらぁ、昨日は昨日、今日は今日でしょう? それにゆっくりお湯につかって体を休ませることは大切よぉ」




柔らかい笑みを浮かべたセラフィナが、ナディアの頬に手を添える。すかさず、その手をソフィーが払いのけた。




「ナディア様はもうハウゼン男爵夫人なのですぞ。今日からは私が正式に、専属侍女として誠心誠意使える所存でございます」




「ボクもナディア専属がいーなー」




ウンディーネがナディアに抱き着くと、ソフィーが瞬時に引きはがす。




「ナディア様、湯浴みの準備をして参ります。2人とも手伝うのじゃ」




ナディアが何か言う前に3人は浴室へと消えて行った。




(初めて来た場所なのに、てきぱき動けるソフィーはすごいわね。それに、昔からの知り合いみたいにもう打ち解けているし。まだ何がなんだかよく分からないけど、ソフィーがいてくれてよかったわ)






心も体も休まるラベンダーの香りのお風呂に入り、ドレスルームいっぱいのドレスの中からソフィー達に選んでもらったドレスを着て、見た目も美しく味も最高においしい豪華な食事をしたナディアは、夢をみているような気持ちになった。


殺されるかもしれないと恐怖していたのに、呆気なく身代わりが受け入れられ、手厚くもてなされている。




月明かりが差す窓辺で、母の絵本とリディス神のネックレスを胸に抱えたナディアは、感謝の祈りを捧げた。




(お母様、ユピテル様。殺されず、追い出されず、無事にハウゼン男爵夫人になりました。本当に感謝致します。貴族らしい生活は皆無だったので、夫人が務まるか不安です。でも、私にできることを一生懸命やって、ハウゼン男爵様に追い出されぬよう努めますので、どうぞ見守っていてください)






ナディアが眠りについたのを確認したソフィーは、隣のレイヴノールの部屋に向かった。




ノックをして入ると、ソファーに腰掛けて深刻そうな顔で腕を組んでいるレイヴノールを、ディラン、ウンディーネ、セラフィナが囲んでいた。




「お前たち、俺は主だぞ」




眉間に皺を寄せて目を閉じるレイヴノール。目を開けると、周囲のひとりひとりに向かって指を指しながら文句を言い始めた。




「ウンディー、何で俺より最初に声をかけた!」




「えー、初めてナディアに声をかけたのは、ディランじゃーん」




「ディランは俺が命じたからいいんだ。あと、セラフィナ! さすがにあそこは俺が話す番だろう」




「あらぁ、幼稚な嫉妬は嫌われるわよぉ」




「嫉妬じゃない! それとディラン、ナディアの前で言葉の刃を振り下ろさないでくれ」




「私のせいではない。主のメンタルが熟したトマト以下だからだ」




「ひどいっ。もうそれぐちゃぐちゃで原型がないやつ!」




レイヴノールは膝を抱えて丸くなる。




「主君、いい加減にしなされ。ナディア様の伴侶になられたのですぞ」




ソフィーの声に顔を上げ、レイヴノールは一気に表情が明るくなった。




「伴侶! なんていい響きなんだ。ああ、実物のナディアはかわいいなあ。お前たちも見ただろう、あの愛らしさ」




「主君! 確かにナディア様は外見も美しいが、中身も輝いているのじゃ」




「分かってるさ。土下座をさせてしまったのは一生の恥。ナディアにはこの邸宅で、何も知らず幸せに暮らしてほしい。だからお前たち、便宜上は使用人なんだから、もっと俺のことを主として敬う姿勢を見せないと、ナディアが変に思うじゃないか」




「敬うかどうかは主次第だ」




「使用人って、何したらいいのか分かんなーい」




「ナディア様が幸せに暮らせればそれでいいんじゃないのぉ」




「私は今までどおりナディア様にお仕え致すぞ」




「……うん、もういいや。とにかくナディアにだけは知られないように気を付けてくれ」




レイヴノールはまた膝を抱えて丸くなる。


ナディアの部屋に続くドアに目を向けると自然に笑みがこぼれてきた。




「ナディア、やっと会えた」




微笑むレイヴノールの顔に満月の光が差し込み、サファイアの瞳が輝いた。

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