『第2章:フラグメント・ログ』第1話
瓦礫が煙を吐き出す中、静寂が荒野を支配していた。
先ほどまで響き渡っていた砲声や轟音は遠い残響となり、微かに風が砂を巻き上げる音だけが耳朶を打つ。
陽光は、荒れ果てた大地に容赦なく降り注ぎ、焼け焦げた鉄骨や崩れ去ったコンクリートの塊は、
影を長く伸ばしていた。
その全てを見下ろすように、神咲アルネは立っていた。
彼女の身を包む白銀の祈装は、先刻の激戦の痕跡をわずかに留めていた。
装甲の表面に走る微細な亀裂は、修復機構によって既に塞がれつつあるが、戦闘中に飛び散ったであろう血液や油のような黒い染みが、無機質な白を汚している。
しかし、アルネの瞳は、それらの汚れを認識していないかのように冷徹で、感情の気配すら感じさせなかった。
「祈装コード・ARISA、基本待機モードへ移行。」
アルネの短い命令に、祈装は従順に応える。
装甲を構成していた銀色のパネルが滑らかに収縮し、彼女の細身の身体から離れていく。
まるで、水が引くように、あるいは霧が晴れるように、祈装は光の粒子となって彼女の掌に集約されていった。
最後に残ったのは、小さな花飾りのような形をした、冷たい金属の塊。
それが、彼女が戦うために身につける、ただ一つの残滓だった。
掌に残された祈装コードを、アルネは無意識のうちに凝視していた。
その表面を指先でなぞる。ひやりとした感触が、皮膚を通じて脳へと伝わる。
戦闘中、ふと感じたあの違和感が、再び彼女の脳裏に蘇った。
――何か、決定的なものが抜け落ちてしまったような、空虚感。
それは、空間にぽっかりと開いた穴のようであり、存在しないはずの歯が抜けた時の舌の違和感にも似ていた。
言葉にしようとしても、具体的な形を持たない、ただの漠然とした喪失感。
「……また、抜けた。名前が……誰の?」
アルネは、声に出して呟いた。
その声は、感情を排したかのように平坦で、わずかな戸惑いだけが宿っていた。
誰かの名前。それが、誰の名前だったのか、思い出せない。
それは、かつて自分の最も身近にいた、大切な“誰か”の名前だったような気がする。
しかし、その“誰か”の顔も、声も、思い出せない。名前の響きだけが、か細い糸のように心の中に残されているのに、その糸の先に何があったのか、全く辿り着けない。
脳が、その空白を埋めようと必死に信号を送っているのが分かった。
しかし、どんなに強く意識を集中させても、そこに現れるのは、漠然とした霞のような映像だけだった。思い出そうとすればするほど、その霞は濃くなり、やがては何も見えなくなる。
ただ、心臓だけが、掴まれるように痛んだ。
それは、記憶とは関係のない、肉体的な痛みであった。
あるいは、感情が消え去ったはずの身体に、それでも残された、最後の痛みだったのかもしれない。
痛みの理由も、原因も分からない。
けれど、その確かな痛みが、アルネが何かを、かけがえのない何かを失ったことを、残酷に突きつけていた。
荒野の風が、アルネの長い黒髪を揺らす。
彼女の冷めた瞳は、遥か彼方の地平線を捉えていた。
そこには、崩壊した都市の残骸が、霞んで見えていた。
その全てが、アルネにとってはただの風景に過ぎなかった。
かつて、そこに何があったのか。なぜ、自分がここで戦い続けているのか。
その根源的な理由すらも、既に曖昧になりつつあった。
彼女に残されたのは、任務を遂行するという、冷たい義務感だけ。
だが、掌に握られた祈装コードの冷たさが、なぜか、微かに温かく感じられた。
その温かさの理由も、アルネには分からなかった。