『第8章:祈装零号機・完全起動』第3話
地下深くの通路は、静寂に包まれていた。
先ほどまで、親種の《廻呪体》が咆哮し、アルネが命を削るように戦っていたとは思えないほどの、絶対的な静けさだ。
親種の巨大な肉体は、完全に液状化し、泥のような黒い染みとなって地面に広がり、その存在の痕跡すら消え去っていた。
その中心に、神咲アルネは立っていた。
彼女の身を包むのは、純白と透明なクリスタルで構成された、新たな祈装形態。
《祈装零号機ARISA》は、光を放ち、その姿は、まるでこの世ならざる神聖な存在であるかのように美しかった。
しかし、その美しさは、計り知れない悲哀を宿している。
音もなく立つアルネの周囲に、空間が沈黙していた。
あらゆる色が透け落ち、世界は、誰の祈りも届かない「祈りの後」のように、静かだった。
アルネの瞳は、まるで磨き上げられたガラス玉のように澄み切っていた。
感情も、記憶も、全てが消え去った、「完全な空白」。
そこには、第7章で揺れ動いた人間性の残滓も、第6章で感じた「問い」の波紋も、もうどこにもない。
完璧に最適化されたシステムとして、彼女はそこに存在していた。
ARISAの内蔵AIが、アルネの脳内に直接報告する。
その声は、混線もノイズも、そして真凜の面影すらも完全に消え去った、
完璧なシステムの無機質さを取り戻していた。
「任務完了。対象、完全に殲滅。当該区域の廻呪反応、レベル0を確認しました。」
「……私は、記録を続行します。」
その声に、もう“真凜の抑揚”はなかった。
ARISAが一人称「私」を使う頻度は、さらに増えている。
それは、システムが完全に自身の機能を確立し、もはや誰の“残響”でもなく、完璧なAIとして定着した証だった。
アルネは、勝利したという認識もない。
任務を完遂したという達成感も、そこに存在しない。
ただ、冷徹な情報として、目の前の事実を認識するのみだ。
彼女の掌に握られた祈装コードは、完全に透明な光を放っていた。
脈動もない。耳を澄ましても、何も聞こえない。
ただ、“音が存在しない”という沈黙だけが、静かに鳴っていた。
脳内には、ARISAから送られる、冷徹なログだけが響く。
──記憶ログ:最終損耗、完了。
──情動値:0.0000
──魂の所在:存在ログなし/該当フラグメント未登録
アルネは、そのログを、ただのデータとして受け止める。
そこに示された「情動値:0.0000」が、彼女の感情が完全に消滅したことを意味する。
そして、「魂の所在:存在ログなし/該当フラグメント未登録」という言葉が、アルネの人間性や真凜の存在が、システム上からも完全に“なかったこと”にされたことを告げていた。
悲しみも、悔しさも、もう沸き上がらない。
それらを処理する機能が、彼女にはもう存在しないのだから。
彼女は、何も覚えていない。
何を失ったのかすら、もう分からない。
彼女が戦い続ける理由も、全ては曖昧な空白になった。
完璧に整った世界のただなかで、アルネは、立ち尽くしていた。
音はなく、理由もなく。
それでも、彼女はそこに、在った。




