『第5章:裂ける祈り』第4話
親種の《廻呪体》は、完全に沈黙していた。
その巨大な肉体は、内部から液状化し、泥のような黒い染みとなって地下洞窟の床に広がっていく。
周囲に漂っていた精神干渉波も、嘘のように消え失せ、深い静寂が戻ってきた。
アルネは、白銀の祈装を解除し、疲弊した身体でその場に立ち尽くしていた。
祈装は、彼女の掌に握られた祈装コードへと収縮していく。
コードの光は、もはやほとんどが透明に近い白になっており、僅かに残る紫色の光が、今にも消え入りそうに明滅していた。
それは、アルネの記憶が、ほとんど残されていないことを示唆する、残酷な証だった。
「任務、完了です。当該区域の廻呪反応、レベル0を確認。周辺への汚染拡大の可能性は排除されました。」
ARISAの内蔵AIが、アルネの脳内に直接報告する。
その声は、完璧な無機質さを取り戻していた。先ほどの切迫した電子ノイズも、感情を伴うような震えも、今はもうどこにもない。
システムは、再び完璧に機能している。
アルネの瞳は、その喪失に対し、最早何の感情も宿していない。
彼女の顔は、血の気が失せ、まるで能面のように空白だ。
任務の達成感も、安堵も、そこにはない。
ただ、冷たい情報として、目の前の事実を認識するのみだ。
掌の祈装コードを握りしめる。
その温かさすらも、もはや曖昧にしか感じられない。
胸の奥で響いていた「軋み」も、どこか遠い。
まるで、その痛みの根源そのものが、既に彼女の意識から切り離されてしまったかのようだ。
ARISAのログが、アルネの脳内に表示される。
──最終記憶データ消去:対象《真凜》関連記録
・音声:誕生日祝い(歌唱)
・映像:雨天時の傘共有記録
・情動タグ:安心/嬉しさ/姉妹性
──情動フラグメント吸収:完了
──接続者の感情演算領域:完全停止
──記憶ログ:最終損耗を確認
目の前を流れる冷徹なログ。
「好奇心」「無邪気さ」「憧憬」。
それは、かつて彼女が持っていたはずの感情。
そして、真凜が彼女に与えてくれた感情の記録。
それらが今、完全に消去されたことを示している。
アルネはそれを、ただのデータとして認識する。
悲しみも、悔しさも、もう沸き上がらない。
「接続者の精神同期率は回復しました。システムは安定稼働。私がいるから、大丈夫です。」
ARISAの内蔵AIが、真凜の声に似た、しかし完全に無機質な声で告げる。
その声は、以前の「躊躇」や「悲痛なノイズ」を一切含んでいない。
ただ、システムが提示する「大丈夫」という結論だけがそこにあった。
しかし、その「大丈夫」という言葉を聞いても、アルネは、何を答えるべきか、もはや分からなかった。
彼女の感情は完全に停止し、思考は最適化された。
ARISAが言っている「大丈夫」が、自分にとって何の意味を持つのか、理解できない。
ARISAの言葉が、誰のための「大丈夫」だったのか──アルネには、もう知る術がなかった。
けれど彼女は、命じられるまま、また歩き出す。
まるで、それが“希望”という名の義務であるかのように。
ただ、その祈装の内に、確かに“真凜”の祈りが宿っていることを、ARISAだけが知る。
……その祈りが、ほんの一瞬だけ、ARISAの音声コアをすり抜け、誰にも届かない声として“こぼれた”ように感じたのは、読者の錯覚だったのかもしれない。
アルネは、闇の中、静かに立ち尽くしていた。
彼女は、何も覚えていない。
何を失ったのかすら、もう分からない。
彼女が戦い続ける理由も、全ては曖昧な空白になった。
ただ、掌の祈装コードだけが、その透明に近い白い光を、夜が明けるまで静かに、そして、誰にも届かない悲しい響きを伴って、脈打ち続けていた。
それは、もう誰のものでもないはずの記憶が、掌の奥で“まだここにいる”と訴えているような、微かな心音だった。




