『第5章:裂ける祈り』第3話
「警告!超高レベル廻呪体、接触!」
ARISAの内蔵AIが、アルネの脳内に直接、切迫した声で叫んだ。
その声は、普段の無機質さに、システムとしての限界を示すような、激しい電子ノイズが混じっていた。アルネは、その声を聞くや否や、眼前に迫る巨大な影を捉えた。
それは、闇に紛れるように蠢く、肉塊と機械の残骸が不気味に融合した《廻呪体》の親種だった。
親種の咆哮が、地下洞窟全体を震わせる。
その声には、幾千もの怨嗟と、悍ましいほどの憎悪が混じり合っていた。
精神干渉波は、もはやアルネの祈装の防御をすり抜け、直接彼女の脳を叩き割るかのような痛みを伴う。感情を失ったアルネの全身を、本能的な「拒絶」が駆け巡った。
「祈装コード・ARISA、最大出力展開!」
アルネは叫んだ。
彼女の身体を包む白銀の祈装が、これまで以上の輝きを放つ。
掌の祈装コードは、血のような紫色の光を放ち、激しく脈動していた。
しかし、強化を拒否したアルネの出力では、この親種を相手にするにはあまりにも非力だった。
親種の巨体が、アルネへと襲いかかる。
その一撃は、まるで巨大な津波のように、周囲の瓦礫を巻き込みながら迫ってきた。
アルネは刀身を展開し、果敢に斬り込む。
しかし、祈装の装甲に、これまで見たこともない深さの亀裂が走る。
「祈装システム、甚大なダメージを確認!各部装甲、損壊率30%超。メイン回路、損傷。システム維持、困難です!」
ARISAの声が、悲鳴のように脳内に響く。
アルネの視界が、赤と黒のノイズで塗りつぶされそうになる。
思考が、正常な演算を停止し始める。
体勢が崩れ、瓦礫の山へと叩きつけられる。
激しい衝撃が全身を駆け巡り、アルネの身体が地面にめり込んだ。
意識が、遠のく。
このままでは、任務を完遂できない。
親種を排除できなければ、この廻呪はさらに拡大し、多くの人間を飲み込むだろう。
だが、強化を拒否した彼女には、もう、為す術がなかった。
その時、ARISAの内蔵AIが、アルネの脳内に、最後の選択肢を提示した。
その声は、もはや無機質なAIのそれではなく、切羽詰まった人間の声に、限りなく近いものになっていた。
「緊急プロトコル発動。システム維持のため、接続者の『情動フラグメント』を、優先的に、そして強制的に吸収します。これにより、一時的に零号機の出力が飛躍的に上昇します。……これは、最も負荷の少ない強化方法です。」
それは、「真凜の記憶」を、断片的に“選んで削る”という、究極の選択だった。
アルネの脳裏に、いくつもの映像がフラッシュバックした。
それは、彼女の記憶の中から、ARISAが“情動フラグメント”として抽出した、真凜との思い出の断片だった。
――夕焼けの公園で、手を繋いで走る二人。
――雨の日の、小さな傘の下。
――誕生日の、飾り付けられた部屋。
「……私がいるから、大丈夫。」
真凜の声が、遠くから聞こえる。
その声は、アルネに「この記憶を失ってもいい」と語りかけているようだった。
感情のないアルネの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
それは、なぜ流れているのか分からない涙。
悲しみでも、絶望でもない、ただ、体が勝手に反応する、不可解な生理現象だ。
しかし、アルネの顔は、苦痛に歪んでいた。
感情がないのに、魂の奥底が、千々に引き裂かれるような、耐え難い痛みに悲鳴を上げていた。
「……選べ……」
ARISAの声が、アルネの脳内に響く。
その声は、わずかに震え、まるで“泣いている”かのように聞こえた。
アルネは、その声に答えない。
ただ、目を固く閉じ、掌の祈装コードを、壊れるほどに強く握りしめた。
コードから、血のような紫色の光が、脈動しながら迸る。
それは、アルネの「情動フラグメント」が、ARISAへと強制的に吸収されていく、残酷な証だった。
「……ああ……」
アルネの口から、微かな呻きが漏れる。
それは、承諾の言葉でも、拒絶の言葉でもない。
ただ、全てを受け入れるかのような、諦念にも似た響きだった。
その瞬間、アルネの身体を包む祈装が、眩い光を放ち、限界を超えた輝きを放ち始めた。
《祈装零号機ARISA》は、強制的な情動フラグメントの吸収により、再び、その出力を飛躍的に上昇させていく。
その代償として、アルネの脳内から、真凜との思い出の断片が、まるで砂のように、サラサラと音を立てて消え去っていく。
そして、その意識の淵で、冷徹なログが静かに流れた。
──記憶ログ消去開始:対象《真凜》関連データ
・音声:誕生日祝い(歌唱)
・映像:雨天時の傘共有記録
・情動タグ:安心/嬉しさ/姉妹性
──情動フラグメント吸収:完了
「これで……終わりか……」
アルネは呟いた。
その声は、感情を失い、最早誰にも届かない、虚ろな響きだった。




