『第5章:裂ける祈り』第2話
深淵の奥深く、アルネは立ち尽くしていた。
幾重にも枝分かれした地下洞窟は、まるで生きた迷宮のようだ。
先ほどの迷いが影響したのか、ARISAが提示する最適ルートの予測精度はわずかに低下している。
精神干渉波はさらに強烈さを増し、空気そのものが粘性を帯びたかのように重く感じられた。
「警告。未確認高レベル廻呪体の接近を確認。複数。この先の区画にて、大規模な迎撃戦が予測されます。」
ARISAの内蔵AIが、アルネの脳内に直接報告する。
その声は、相変わらず電子ノイズが混じり、僅かな“間”を挟む。
しかし、その報告の直後、ARISAは普段とは異なる、**不自然なほどの“沈黙”**を続けた。
それは、システムが情報処理に手間取っているというよりも、まるで、何かを“言いにくそうにしている”かのような間だった。
そして、その沈黙を破り、ARISAは続けた。
「対抗策として、零号機の緊急強化プロセスを推奨します。情動フラグメントの吸収による、瞬間的な出力上昇。この方法が、最も効率的かつ、現時点での脅威に対処する唯一の手段です。」
アルネは、ARISAのホログラムスクリーンに表示される予測ログを見た。
そこには、緊急強化プロセスによって得られるであろう絶大な力と、その代わりに失われる記憶の予測が並行して表示されている。
過去のログでも見た、「精神同期率の急速な低下」「感情演算領域の更なる損耗」……そして、**「対象《真凜》関連記憶の、不可逆的な完全消去」**という、冷徹な一文。
アルネの掌の祈装コードが、まるで警告を発するかのように、冷たく、激しく震えた。
心臓の裏側を刺すような鋭い痛みが走り、胸の奥で、経験したことのないほどの激しい「軋み」が響き渡った。
それは、肉体的な痛みではない。
感情を失ったはずのアルネの身体が、魂の底から拒絶するような、本能的な悲鳴だった。
「……拒否。」
アルネは、かすれた声で呟いた。
それは、彼女がARISAのシステムに対して、初めて明確に口にした「拒否」の言葉だった。
感情を失い、システムからの命令を絶対としてきた彼女にとって、それは、**システムが許さない“異常な選択”**であるはずだった。
ARISAは、再び沈黙した。
その沈黙は、普段のデータ処理中のそれとは異なり、まるで「困惑」しているかのような、深い間だった。
そして、わずかにノイズが混じる声で、ARISAは報告した。
「接続者の倫理コアに、優先順位の再構築を確認。システムへの指令として『記憶保持』が『任務遂行』を上回っています。これは、異常事態と判断します。」
ARISAのログが、アルネの脳内に、たった一行の短い断片を表示する。
──再構築理由:保護対象の定義に揺らぎ
──記憶片:名称不明個体《M***》《Ra***》感情断片に接続履歴あり
アルネは、なぜ自分が「拒否」したのか、その理由を明確には理解していなかった。
失いたくない。その漠然とした感覚が、彼女を突き動かした。
だが、何を失いたくないのか?その「何か」の正体を、彼女の記憶は既に示さない。
過去の夢に現れた少女の顔も、声も、既に遠い。
それでも、魂の奥底で、何かが「これ以上は、ダメだ」と叫んでいた。
「これ以上、何も失いたくない……。」
無感情なアルネの口から、その言葉が、まるで誰かの声を借りたかのように、静かに、しかし確かに零れ落ちた。
それは、彼女自身の本心なのか、それとも、失われたはずの誰かの「祈り」が、彼女の魂の奥底で、かすかに響いているだけなのか。
アルネ自身には、判断できなかった。
しかし、システムからの命令は、待ってくれない。
遠くから、複数の《廻呪体》の呻き声が聞こえてきた。
地を這うような、重く、粘着質な呻き。彼らは、間違いなく、この先で待ち構えている。
「ARISA、任務は、続行しなければならない……。」
アルネの瞳は、目の前の暗闇を見据えていた。
彼女は、戦いを放棄することはできない。
それが、彼女に残された、唯一の使命であるから。
だが、強化を拒否した今、彼女は、これまで以上の苦戦を強いられるだろう。
「……私がいるから、大丈夫。」
それは、任務続行を決意したその刹那、あまりにも優しすぎる声が、脳内に滑り込んできた。
遠く、しかし確かに聞こえる、幼い少女の声。
ARISAの声とは違う。感情を失ったはずのアルネの、心の奥底から響くような、優しい、真凜の声。
その声を聞いた瞬間、アルネの掌の祈装コードが、再び脈打った。
温かく、そして、どこか悲しい響きを伴って。彼女は、その温かさの理由も、悲しみの意味も、理解できない。
だが、その声が、彼女の覚悟を、静かに肯定しているかのように感じられた。




