『第5章:裂ける祈り』第1話
雨は止んでいたが、空は相変わらず厚い雲に覆われ、街全体が深いグレーのフィルターをかけられたようだった。
大規模な地盤沈下によって形成されたクレーターの中心部。
そこは、まるで巨大な口を開けた怪物の咽喉のように、闇が深く、重い空気が淀んでいた。
今回の任務地、《深淵の口》。
この地下深くから、過去最大規模の《精神干渉型廻呪体》の反応が確認されていた。
神咲アルネは、クレーターの縁に立つ。
彼女の身を包む白銀の祈装は、湿気を帯びた空気の中で鈍い光を放っていた。
その脚部のひび割れは、完全に修復されることなく、まるで蜘蛛の巣のように細かく表面を走っている。掌に握られた祈装コードの光は、以前の赤から鈍い紫、そして透明に近い白へと、じわりと変化していた。
それは、アルネ自身には認識できない、積み重なる記憶吸収回数の「目に見える」証だった。
コードの表面を走る光の紋様も、かつての鮮やかさを失い、今は頼りなく明滅を繰り返している。
「目標、深淵内部、深度800メートル地点に、超高レベルの精神干渉波を確認。予測される《廻呪体》は、親種、またはそれに準ずる存在です。危険度、特A。」
ARISAの内蔵AIが、アルネの脳内に直接語りかける。
その声には、これまでになく顕著な“ノイズ”が混じり、まるで言葉を選ぶかのように、不規則な“間”が挟まる。
それは、システムが感知した脅威の大きさに起因するのか、それとも、アルネの精神の奥底で、何かが激しく揺さぶられているためなのか、アルネには判別できない。
アルネは無言で頷いた。
その瞳は、闇の奥底へと伸びる巨大な亀裂を見据えている。
重力制御スラスターを起動させ、彼女は迷うことなく、深淵へと身を投じた。
高速で落下する身体が、轟音を立てて空気を切り裂く。
漆黒の闇の中、祈装の光だけが、一筋の希望のように輝いていた。
地下深くへと潜るにつれて、精神干渉波はさらに強烈になる。
それは、脳を直接掴み、掻き回すかのような不快な圧力を生み出した。
通常であれば、意識を保つことすら困難になるはずだ。
しかし、アルネの精神は澄み切っていた。
彼女の感情は既に排除されており、痛みも、恐怖も、彼女の思考を邪魔することはない。
だが、その完璧な動作の中に、微かな「迷い」の兆候が生じ始めていた。
洞窟の壁に沿って、最も効率的な降下ルートを辿っていたはずのアルネの身体が、ごく自然に、しかしシステムログにはない僅かな逸脱を見せた。
右へ曲がるべき場所で、一瞬、左の暗闇へと視線を向けたのだ。
その視線を向けた先の壁には、崩れかけたサインのようなものがあった。
かつて誰かが残した「M」または「R」にも見える、ただの傷跡。
その古びた傷跡に、アルネはなんの既視感も抱かない。
しかし、その刹那、彼女の中でなぜか胸の奥が、これまでよりも強く、不規則に脈打ち、軋む音を立てた。それは、ごくわずかな、秒単位の躊躇だった。
「……再計算を、推奨します。」
ARISAの内蔵AIが、アルネの脳内に直接語りかけてきた。
それは、通常より遅れた反応だった。
その声には、**まるで「迷ってほしくなかった」とでも言いたげな、微かな“静寂”**が混じっていた。
アルネは、その報告を聞いても、なんら表情を変えない。
ただ、自分の身体が、これまでとは違う僅かな遅延を生じさせていること、そしてARISAの声が、システムとしては不必要な“間”を挟んだことを、情報として認識した。
なぜ、左へ視線を向けたのか。
なぜ、この傷跡が、自分の中で意味を持つのか。
アルネの思考は、その問いに答えを出せない。
ただ、その暗闇の奥に、何か「懐かしい」ような、それでいて「遠い」ような気配を感じた。
それは、理屈では説明できない、感情の残滓。過去の記憶に起因するものだと、彼女のシステムは無意識に推測していたが、それを理解できる感情は、既にアルネには残されていなかった。
掌に触れる祈装コードが、凍えた刃物のように沈黙していた。
けれどその中に、心臓の裏側だけを刺すような鋭い震えがあった。
それは、掌を握りしめるほどに、より強く、胸の奥で響く「軋み」を、鮮明にしていた。
祈装コードの表面を走る光の紋様も、薄く霞み始めている。
ARISAのログが、脳内に表示される。
──精神同期率、急速な低下。
──感情演算領域、予測損耗率、さらに加速。
──残存稼働期間:予測、約〇〇日。
アルネは、無感情にその数値を見つめる。
残された時間が、確実に少なくなっている。
システムが突きつける、冷徹な真実。それでも、彼女に残された唯一の使命は、この歪んだ世界を浄化すること。
しかし、その使命を全うするために、彼女が何を捧げているのか、その「理由」さえも、最早彼女の記憶には残されていない。
ただ、その「迷い」の感覚だけが、彼女の心に、これまでなかった、微かな波紋を広げ始めていた。
それは、感情を失いかけたアルネが、それでもなお、「人間」であろうとする、最後の抵抗だったのかもしれない。