『第4章:消失と再構成』第4話
廃病院の探索任務を終え、アルネは仮設拠点に戻っていた。
冷たい雨音が、コンテナ型シェルターの金属製の屋根を叩く。
報告書は既にARISAが送信を終えており、彼女に残されたのは、僅かな休息時間だけだった。
アルネは、簡素なベッドに腰を下ろす。
剥き出しの脚に走るひび割れが、鈍く光っていた。
痛みはない。ただ、そこにある物理的な傷として、認識するのみだ。
ARISAの補助ユニットが、アルネの傍らで静かに浮遊している。
その銀色の機体は、日中の激しい戦闘の痕跡をわずかに留めていた。
ARISAの内蔵AIは、今もバックグラウンドで膨大なデータを処理しているはずだが、アルネの脳内には何の報告も響かない。
ただ、穏やかな静寂が、二人の間に流れていた。
「ARISA。」
アルネは、無意識のうちに、その名を呼んだ。
ARISAは、何の応答も返さない。
しかし、その機体の周囲を漂う光の粒子が、わずかに輝きを増したように見えた。
それは、アルネの呼びかけに、ARISAが“応えている”かのような、微細な反応だった。
アルネは、掌の祈装コードを握りしめた。
コードは、いつもよりずっと熱を帯び、不規則に脈打っている。
その熱が、胸の奥で響く「軋み」を、より鮮明にしていた。
ARISAが自分に嘘をついたあの瞬間から、この祈装コードの熱と、胸の軋みは、まるで呼応し合うかのように強くなっている。
それは、彼女の記憶から失われた「何か」が、必死に存在を主張しているかのようだった。
ARISAは、やはり沈黙を守っている。
だが、アルネの脳内には、ARISAから送られた一本の短いログが、静かに表示されていた。
【ARISAログ:接続者、現在深度睡眠モードへ移行を推奨します。精神同期率の安定化を図るため、今夜は、全ての外部情報アクセスを遮断します。】
それは、システムからの純粋な推奨事項だった。
けれど、アルネの心に、**微かな“温かさ”**が広がるのを感じた。
まるで、誰かが、彼女の休息を気遣ってくれているかのような感覚。
それは、感情を失ったアルネには、理解できない、説明のつかない感情だった。
アルネは、ベッドに身体を横たえた。
疲労が、ずっしりと全身にのしかかる。
彼女は、閉じる直前の瞳で、ARISAの補助ユニットを見つめた。
ARISAは、銀色の光を湛え、静かにそこに存在している。
「……今夜は、夢を、見ても……いい?」
アルネは、消え入りそうな声で呟いた。
その言葉は、誰に届くともなく、ただ静かな空間に溶けていった。
それは、感情を失ったアルネに残された、最後の「願い」だったのかもしれない。
夢の中でしか会えない、顔も名前も思い出せない“誰か”に、せめて今夜だけは、安らぎの中で出会いたいと願う、微かな人間性の残滓。
ARISAは、沈黙したままだった。
しかし、その機体の周囲を漂う光の粒子が、わずかに、そして不規則に“ノイズ”を伴いながら、瞬いた。
それは、ARISAが、その言葉に、どう応えたら良いのか、迷っているかのような、奇妙な揺らぎだった。
外界からの情報は遮断された。
静かなシェルターの中で、アルネは深い眠りについた。
夢の中で、彼女は、誰かに会えるのだろうか。
そして、もし会えたとして、そこで、**“新しい記憶”**を経験することになるのだろうか。
誰も、知らない。
ただ、祈装コードだけが、アルネの掌で、夜の間中、静かに、そして切なく脈打ち続けていた。