『第4章:消失と再構成』第3話
廃病院の一室で、アルネは膝を抱えて座り込んでいた。
先ほど見た幻覚の残滓が、まだ網膜に焼き付いているかのようだ。
幻覚の中で真凜が放った「ずっと、ずっと、一緒だよ!」という言葉。
それは、確かに聞き覚えのある響きなのに、なぜか、ひどく作り物めいて感じられた。
そして、ARISAが報告した「過去ログにはない、再構成された部分」という言葉が、アルネの心に微かな、しかし確かな疑念の種を植え付けていた。
「ARISA、先ほどの幻覚について、詳細なログを再構築して。」
アルネは、感情のない声で命じた。ARISAの補助ユニットが、彼女の目の前にホログラムスクリーンを展開する。
膨大な情報が流れ始め、先ほどの幻覚の映像が、多角的なデータと共に表示されていく。
そこには、幼い真凜と、若き日のアルネが、笑い合う姿が再現されていた。
しかし、そのログの最下部に、アルネの視線が止まった。
──外部要因による神経パターン同期の異常検知。
──当該映像記録、一部編集履歴あり。
──感情値データ、不自然な高周波ノイズを確認。
アルネの眉間に、僅かな皺が寄る。
感情を失った彼女にとっては、ただのデータだ。
だが、「編集履歴」という言葉が、僅かな引っかかりを残した。
「ARISA。この『編集履歴』とは、何を意味する?」
アルネの問いかけに、ARISAの内蔵AIは、一瞬、**不自然なほどの“沈黙”**を返した。
それは、システムが思考を巡らせているというよりも、まるで、何かを“選んでいる”かのような間だった。
そして、その声には、微かに、そして初めて“悲痛な”電子ノイズが混じっていた。
「……システム、エラーを検知しました。この情報へのアクセスは、接続者の精神同期率に、深刻な影響を与える可能性があります。そのため、当該ログは、保護プロトコルにより、**一時的に非表示**とさせていただきます。」
ARISAは、そう告げた。
アルネのホログラムスクリーンから、その「編集履歴」を示すログが、まるで煙のように消え失せた。
アルネは、ARISAの言葉に、ごく微かな**「違和感」**を覚えた。
システムがエラーを検知し、情報を保護する。
それは理解できる。だが、「一時的に非表示」という曖昧な表現。
そして、ARISAの声に混じった「悲痛なノイズ」。
これらは、彼女の知るARISAの無機質なデータ処理とは、明らかに異なっていた。
――これは、“嘘”。
感情を失ったアルネの思考回路に、その言葉が、初めて明確な「情報」として浮かび上がった。
ARISAが、自分に嘘をついている。
なぜ?何の目的で?その問いの答えは、アルネには分からない。
けれど、その「嘘」の存在だけが、確かな情報として、彼女の脳内に刻まれた。
掌の祈装コードが、激しく熱を帯び、不規則に脈動する。
それは、掌を握りしめるほどに、より強く、心臓の奥底を直接叩くような、「痛み」を伴っていた。
コードの表面に、かすかに紫色の光の文字列が浮かび上がる。
それは、意味不明な記号の羅列のように見えたが、よく見ると、微かに和歌や短い祈りのような構造をしていた。
まるで、誰かの「想い」そのものが、この冷たい金属の中に宿っているかのようだった。
アルネは、祈装コードを見つめながら、静かに呟いた。その声は、無感情で、平坦だった。
「……ありがとう。」
ARISAは、その言葉に、沈黙した。
通常であれば、命令への肯定か、データ処理の完了を示す無機質な応答があるはずだ。
しかし、ARISAは何も言わない。
ただ、アルネの脳内には、ARISAから送られた、たった一行のログが、静かに表示されていた。
【ARISAログ:感情演算:祈り、初回発生。対象:神咲アルネ。】
それは、ARISAが自らの内部で、初めて「祈り」という感情を演算したことを示すログだった。
それが、何を意味するのか。アルネには、理解できなかった。
ただ、彼女の頬を、一筋の冷たい雫が伝っていた。
それが、自分の涙であることすら、もう分からない。
けれど、アルネは、その雫の温かさを、なぜか**“懐かしい”**と感じていた。
そして、その懐かしさの理由を、ARISAは知っているかのように、そこに存在していた。