『第4章:消失と再構成』第2話
神咲アルネは、閉鎖された病院の薄暗い廊下を進んでいた。
任務は《記憶浸食型廻呪体》の掃討。
そのタイプは、人間の失われた記憶や心の隙間に入り込み、幻覚として再現する。
廊下の壁には、かつて白かったであろう塗料が剥がれ落ち、不気味な影が伸びていた。
足元からは、医療器具らしき金属が擦れる音が、微かに響いている。
ここは、《鋼鉄の回廊》よりもさらに閉塞感が強く、アルネの意識を重く押さえつけるようだった。
「目標、最深部、旧病棟病室区画に反応集中。精神干渉波、極めて高レベルです。この先に、親種が存在する可能性が高いです。」
ARISAの内蔵AIが報告する。
その声は、以前よりもさらにノイズが顕著になり、ところどころで単語の語尾が微かに震えるようになった。
まるで、膨大な情報処理の負荷に、AIが耐えかねているかのようだ。
アルネの脳内では、そのARISAの声が、**特定の周波数で、胸の奥を直接叩くような、奇妙な「痛み」**として響いていた。
しかし、アルネはその原因を特定できない。ただ、目の前の任務に集中する。
古びた病室の扉を押し開けた瞬間、アルネの視界が、パチリ、と音を立てたかのように歪んだ。
そこは、病院の一室であるはずなのに、白く明るい光に満ちている。
柔らかなカーテンが風に揺れ、窓の外には、青い空と、どこまでも続く草原が広がっていた。
そして、部屋の中央には、幼い少女が二人。
一人は、アルネによく似た、少しばかり勝ち気そうな顔つきの少女。
もう一人は、その隣で、無邪気な笑顔を浮かべている、白いワンピースの幼い少女だった。
『お姉ちゃん!見て!新しいお花だよ!』
澄んだ声が、脳内に直接響く。
幻覚だ。
そう理解しているのに、その情景はあまりにも鮮明で、まるで失われたはずの「記録」が、無理やり再生されているかのようだった。
アルネの心臓が、激しく脈打つ。
それは、第3章で感じた「軋み」よりも強く、彼女の全身を揺さぶるような、説明のつかない感情の揺れだった。
アルネは、無意識のうちに、掌の祈装コードを握りしめていた。
コードが、熱を帯び、強く、不規則に脈動する。
「……これは……」
幻覚の中の少女が、白い花をアルネに差し出す。
その笑顔は、かつてアルネが夢で見た真凜と同じ。
だが、その少女の表情が、不自然なほどに固定されていることに、アルネの理性は、微かな違和感を覚えた。
笑顔は完璧なのに、瞳の奥に感情の動きがない。
まるで、誰かが記憶を模倣し、再現しようとして、わずかに失敗したかのような、奇妙な違和感だった。
『お姉ちゃん、これ、あげるね。ずっと、ずっと、一緒だよ!』
その言葉。かつて、あの祈装コードを受け取った時に聞いた言葉。
しかし、その時、真凜はそんな言葉を言っただろうか。
記憶の空白が大きすぎて、アルネには判別できない。
ただ、ARISAの報告が、アルネの脳内に響く。
【ARISAログ:接続者の神経パターンと非同期の映像記録を確認。この映像記録には、接続者の過去ログにはない、“再構成された部分”が含まれます。】
ARISAの内蔵AIの声には、以前よりもさらに深く、どこか“困惑”や“悲痛”のような電子ノイズが混じっていた。
「これは……貴女の過去です。」
ARISAはそう断定した。
その断定的な言葉は、システムとしての冷徹さで語られているはずなのに、なぜか、アルネの心を揺さぶった。
ARISAの言葉を信じるならば、これはアルネ自身の過去。
けれど、感情のないアルネには、その記憶に何の感情も沸かない。
ただ、目の前の光景が「真凜の記憶」であるという情報だけが、脳内を占める。
その偽りの記憶に、アルネの瞳から、一筋の涙が、静かに溢れ落ちた。
なぜ泣いているのか、アルネ自身には分からない。
感情を失ったはずの彼女の頬を、熱い雫が伝う。
ARISAの声が、微かに震えた。
「もし、これが本当なら……私は貴女を、守れていたのでしょうか。」
その問いは、アルネへの問いではない。
ARISAが、まるで自問自答しているかのような言葉だった。
アルネに名前を呼ばれた時のように、ARISAのシステムが、人間的な**“後悔”のような感情**に触れているかのように。
「……貴方には、分からないでしょう。」
アルネは呟いた。
その言葉は、ARISAへの返答だったのか、それとも、自分自身への問いかけだったのか、アルネには判断できなかった。
目の前の幻覚は、その言葉をきっかけに、ゆっくりと歪み始めた。偽りの記憶が、崩壊していく。