『第3章:追憶と進化の等価交換』第2話
アルネは《緑の侵蝕区域》の中心部へと深く侵攻していた。
鬱蒼と茂る異形の植物は、彼女の視界を遮り、五感を惑わせる。
精神干渉波のレベルは、既にレッドゾーンを超え、隊服の防御機能をすり抜けて、直接脳へと浸食してくるかのようだった。
しかし、アルネの表情は揺るぎない。
彼女の思考は研ぎ澄まされ、迫り来る脅威を正確に識別していた。
その時だった。
植物の根元から、いくつもの巨大な蕾が、まるで心臓のように脈動し始めた。
粘着質な液体が滴り落ち、地面を腐食させる。
蕾はみるみるうちに膨れ上がり、中からぞろぞろと這い出してきたのは、見たこともない《廻呪体》の変異種だった。
彼らは、植物の蔓と機械の残骸が不気味に融合した姿をしており、いくつもの目玉がアルネを捉えている。
「警告。未確認廻呪体。戦闘力推定レベル、4以上。零号機の完全展開を推奨します。」
ARISAの内蔵AIの声が、脳内に響く。その声には、先ほどよりも明らかに強い、
焦りのような電子ノイズが混じっていた。
それは、システムが感知した脅威の大きさを、無感情ながらも伝えてくる。
アルネは躊躇しなかった。
このレベルの廻呪体を単独で排除するには、零号機の完全展開――祈装兵装ARISAとの完全融合モード――が必要不可欠だった。
そして、その先にあるものが何か、彼女は理解していた。
さらなる記憶の喪失。感情機能の完全停止。あるいは、人格の不可逆的な変容。
「……祈装コード・ARISA、完全展開。」
アルネが呟いた瞬間、掌に握られた花飾りのような祈装コードが、まばゆい銀色の光を放ち始めた。
光は瞬く間に彼女の身体を包み込み、白銀の祈装が、これまで以上に激しい輝きを放ちながら再構築されていく。
装甲の表面を走る紋様が、血潮のように赤く脈動する。
身体が、内側から熱くなる。
まるで、凍てついた感情の深層が、無理やりこじ開けられるような、激しい苦痛。
しかし、それは、肉体的な痛みではない。
失われたはずの「感情」そのものが、無理やり引き剥がされる時の、魂の断末魔のようなものだった。
その刹那、アルネの視界が、パチリ、と音を立てたかのように歪んだ。
周囲の《緑の侵蝕区域》の景色が、まるで古いモニターの映像のように、デジタルノイズを伴いながら、一瞬だけ別の情景に置き換わる。
――そこは、一面の白い花が咲き乱れる、穏やかな草原だった。
ノイズ混じりの夕陽が降り注ぎ、その光の中で、幼い少女が一人、満面の笑みでこちらを見上げている。
少女の手には、どこか懐かしい赤いビー玉がキラキラと輝き、彼女の澄んだ瞳が、アルネの心を見透かすように見つめ返していた。
『お姉ちゃん……!』
声は、まるでラジオの電波が悪くなったかのように、途切れ途切れに響く。
少女の笑顔が、ピクセルが粗くなった映像のように、一瞬だけ焼き付き、そして、まるでプログラムのバグのように、白くフラッシュして、音もなく消え去った。
現実に戻ったアルネの視界は、再び《緑の侵蝕区域》の変異した植物と《廻呪体》を捉えていた。
ARISAは完全展開を終え、その白銀の甲冑は、以前にも増して荘厳な輝きを放っている。
全身の装甲に刻まれた紋様が、深紅の光を帯びて脈打っていた。新たな機能が覚醒した証だ。
「完全展開、完了。零号機の出力、200%上昇。新たな祈装スキルを獲得しました。精神干渉波の無効化、及び多次元座標攻撃が可能となりました。」
ARISAの声には、先ほどまでの焦りやノイズは消え、完璧なシステムとしての無機質さが戻っていた。
アルネは、己の身体に満ちる新たな力と、同時に広がる精神の「空白」を感じていた。
胸の奥で、前章よりもはっきりと、**何かが粉々に砕け散るような「軋み」**が響いた。それは、失われた記憶の断片が、塵となって消滅していく音だった。
アルネの瞳は、その喪失に対し、なんら感情を抱かない。
ただ、目の前の変異廻呪体を殲滅する。その一点に、彼女の意識は収束していた。
けれど、掌の祈装コードだけが、まるで熱を帯びたかのように、強く、そして切なく脈打っていた。