つ
呵神雅人。
それは代の弟の名前だ。……といっても、彼は二年前に死んだ。代は覚えている。
雅人が死んだことをよく覚えている。何故なら、雅人は代の目の前で死んだから。
四月五日を迎えれば、一歳になっていた弟を、代は目の前で亡くし、代は両親に怒られた。
代が力の強い父親に殴られても平気なのは、
「まさが死んだのはお前のせいだ!!」
そんな父親の叫びの方が、よっぽど。
「ちょっとひーちゃん、駄目だよ、いきなりそんな」
「でも! 私たちが巻き込まれているのは、代の夢かもしれないんだよ!? 代に目を覚まさせることが一番の」
「ひーの馬鹿!」
はなが諭すのをやめた。泣き叫ぶみたいに日向を怒鳴っていた。
「ひーは頭がいいかもしれないけど、頭が回ってないよ。なんでそんなデリカシーのないことをずけずけと言えるの? これが代ちゃんの夢だったとして、そこで死んだはずの雅人くんが生きていたとして、代ちゃんが夢から覚めたくないって思っちゃうの、当たり前じゃん」
「夢は結局夢だよ」
「だからだよ! 覚めたら夢は終わっちゃうじゃん! ひーは覚えてないの? 二組の教室に飾ってあった、体験入学のときの代ちゃんの絵。絵を描くのが好きだっていう代ちゃんなのに、なんでか青や黒や紫って暗い色ばっかり使って描いたのが、弟の絵だって! 死んだ人は絶対に帰ってこないから、会いたくなるんだって」
日向は息を飲む。何も言い返せなかった。
八年も生きていない人生経験では、何も言えなかった。人が死ぬのは当たり前だけど、それを小学校入学前に、しかも赤ん坊が死ぬのを目の前にする子なんて、この平和な国の人口のどのくらいいるだろう。
おじいちゃんおばあちゃんが死ぬのは、年だから仕方ない。けれど、赤ん坊、しかも弟を失うなんて、どれほどの衝撃だろうか。想像したこともないし、したくもなかった。
おそらく、みんなが代を「不思議ちゃん」で片付けてしまうのは、代のそういうところがどうしたって理解できないからだ。そんなに衝撃的な死を体感したことがない。当たり前だ。八年も生きていない。
はなは少し泣きそうだった。はなには代のもう一人の弟である比呂と同い年の弟がいる。
もし突然、弟が死んでしまったら。それが事故であれ、病気であれ、悲しいと思う。泣くと思う。何年か引きずるかもしれない。
けれど、学校で、人はいつか死んでしまうものだ、というのを学んだ。だから、いつか受け入れられると思う。
けれど代は違う。どんなに勉強が好きで、成績が良くても、「人が死ぬのは当たり前」なんてことは保育園では教わらなかったはずだ。保育園の隣に寺があったけれど、寺が何をする場所かなんて、園児にはわからない。おばあちゃんの家に行って、仏壇に手を合わせるのも、親がそうしているのを真似しているだけで、そこにどんな意味があるかなんて、学校に上がった後から知っても別に怒られないことのはずだ。
「わたし、はね」
代が泣きそうな声で、伽藍堂な目で、語り始めた。
「わたしはね、まさがね、死んでからね……うん、思い出した、思い出した。なんで四月六日なのか。そうだよ、なんで忘れてたんだろう。昨日はまさの誕生日だ。一年前の昨日、つまり、今ここから一日前、まさは一歳の誕生日を迎えるはずだったんだ。だからわたしね、入学式なんてお祝い事、したくなかったんだよ」
でも学校行事だから仕方ないじゃない、と続ける声は乾いていた。
はなと日向は黙って耳を傾ける。
「まさの誕生日は、もうお父さんもお母さんもまさはいないから祝ったりしないけど、わたしね、楽しみにしてたんだよ。比呂の誕生日のときのことは覚えてないからね、ちゃんと、意識を持って、弟の誕生日を祝うの、できるはずだった、昨日に」
それはできなかった。
「まさはわたしのせいで死んだから、できなくなった。だからね、わたし、忘れちゃいけないって。四十九日とか、一周忌? とか、よくわかんないから、わたしが覚えていられる日に、まさに、『ごめんね』っていう日」
だからこの日に来ちゃったんだ、と代は語った。本当なら、弟の誕生日の次の日に入学式なんて、めでたいことだ。
「まさ、生きてるんだよね? 保育園にいる?」
「う、うん」
あまりにも、非現実というか……代の悲しみなのかわからない感情の深さを垣間見て、はなと日向はただ頷くくらいしかできなかった。
「なら、まさに会いたい。会ってどうするのかはわからないけど、ひーちゃんの言った通り、この時間は間違っているんだと思う。わたしの夢なのかもしれない。だから、未練、心残りを晴らしていこうと思う」
「そっか」
代は代なりに弟の死と向き合おうとしているのだ。
──と、思っていた。