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それは小学校の入学式の日だった。
呵神代は学校のブランコを漕いでいた。きいこきいこ、と錆びた鎖が擦れる音が心地よい。
テレビ画面の向こうの都会では、桜が咲いているというこの季節。北国と呼ばれる範囲にある代の県では、まだ桜は蕾すらつけない。入学式や卒業式に桜が満開、なんてフィクションだ。少なくとも、小学生の代にとっては。
代は小学二年生。去年も四月六日が小学校の入学式だった。叔母に作ってもらったピンクの衣装で入学式の会場を歩いたのはいい思い出だったかと言われると、代は入学式のことをよく覚えていないので、思い出にすらなり得ない。
まあいいのだ。今年の目標は決まっている。
文部省唱歌だっただろうか。友達百人できるかな、なんて歌っていたのは。
代の学年は百人の半分も同級生はいなかった。だから、代はわかっていた。歌も結局、フィクション、創作物なのだ。
そんな夢物語を現実にできたなら、どんなに素晴らしいことだろう! というわけで、代の今年、厳密に言うと今年度の目標は「友達を作る」ことだった。
百人と豪語しない辺りが、妙に現実の見えているませた小学生らしい。けれど、いずれは百人、と考えている彼女はクラスから浮いた存在だった。
代にとって、友達と呼べる存在はいなかった。それは代が外で絶対に遊ばない女の子だからだ。
保育園に通っていた頃、先生が外で遊んでいいよ、とみんなに言って解放してくれたグラウンドに、代は運動会のとき以外、足を踏み入れることはなかった。
代はチラシの裏が白いと喜ぶ女の子だった。字を覚えるまではひたすらに絵を描いていた。鉛筆で一本一本髪の毛を引いていく代の集中力は凄まじいもので、気づくと昼ごはんの時間になっている。気づくと日が暮れている。
故に、同い年の子との交流が極端に少なかった。けれど、十三人しかいない同い年の子の名前は全員しっかり覚えている。物覚えがいいのだ。
ただ、本当に一人の世界に浸るのが好きな女の子だった。先生がどれだけ「代ちゃんも外で遊ばない?」と声をかけても「絵を描いている途中だから」と言って、黙々と紙に鉛筆を滑らせる。チラシの表面がつるつるしていると、鉛筆の色が上手く乗らないので、その場合はむうっとして、その紙で鶴を折ったり、手裏剣を作ったりしたものだった。何がなんでも外に出ない、強い意志のある子だった。
それが年長になれば、来年は小学生ということで、文字の読み書きのテキストが僅かながらに与えられ、代は勉強にどっぷりとはまった。外に出ない言い訳が「勉強するから」「字を書くから」になったのは言うまでもない。
故に、代は滅茶苦茶どんくさかった。運動がてんで駄目で、運動会のかけっこでは、いつもビリだった。お昼寝の時間で押し入れから出されたみんなの布団の下敷きになることもしばしば。何をどうしたらそうなるのかは、代自身が知りたいところである。下手をすれば「呵神代、布団による圧死」となっていただろう。
変な子だった。それは小学校に通っても変わらなかった。幼い女の子らしく、ピンク色が好きなのに、体験入学で描いた絵は、黒や青や紫といった寒色系の暗色で整えられたものだった。
休み時間、飽きることなく漢字ドリルを解いて、絶対に外に出ない子であることも変わらなかった。それは担任教師すら頭上に疑問符を浮かべるほどのこだわりであった。
学校でドリルをして、本を読んで、時々絵を描いた記憶しかない。体育の授業で逆上がりどころか、前回りすらできない子だった。遊具に上っても、降り方がわからない、と来た道を戻るような子どもだった。跳び箱は四段も跳べない。何が楽しくて、走るのだろう。転んだら怪我をするのに、なんて思う子だった。
そんな代が遊具の中で唯一好きだったのが、ブランコである。ただゆらゆらと揺れていればいいだけだ。楽であり、揺れる感覚が心地よい。代はブランコにだけは乗る子だった。
だから今も、ブランコに乗っている。
ブランコは運動神経が死滅しているかもしれない代でも扱えるほど、簡単な乗り物だ。滑り台の方が子どもには人気だが、ブランコもなかなかの人気で、ブランコにはよく人が集まった。だから、ここを友達を作るための交流の拠点にしよう、と代は決めたのだ。
何故、登校日でもない入学式の日に二年生の代が学校にいるかというと、代の友達になれそうな女の子が一人、今日この日に入学してくるからだ。
それは瑤という女の子だった。保育園が同じで、母親同士が同じ職場で働いているのだ。故に、保育園で迎えを待って居残りする常連同士であり、代は不思議ちゃんながらに常識的な振る舞いも心得ていたので、瑤とは仲が良かった、と思っている。
「瑤ちゃん、まだかなぁ」
まだ小学生の代は思い至らなかった。入学式は親と一緒に帰るのだ。だから、放課後に遊んでいかないのだ。
代の入学式の記憶が淡いものだから、そのことに思い至らないまま、時間が過ぎていく。代は単調作業が好きらしく、一定のリズムできいこきいことブランコを漕ぎ続けて、何時間も過ごした。
まだ時計の読めない代は気づいていなかった。時計の針が動いていないことに。太陽が同じ場所にいずっぱりであることに。その不審さに気づかなかった。
あるいは、あまりに一人でいることに慣れすぎていたからかもしれない。誰もいなくたって、代は楽しかったのだ。「シロなんて犬みたいな名前だね」と言われても「あはは、そうかも」と返してしまうような精神性。前髪を結んだちょんまげの成り損ないを「パイナップル」と笑われても、自分も一緒に「本当だ」と笑い転げてしまうような能天気な笑い上戸。
笑い上戸といえば、二歳のときにコップに並々注がれた日本酒を水と間違えて誤飲したとき、ずっとけらけら笑っていた、と叔母が言っていた。代はよく笑う子だった。
そんな自分の知らない自分の昔話を他人から聞くと、変な気分になる。自分も知らない自分というのは妙におかしな気持ちになる。こういうのを、なんて言うんだっけ、と思い返していると、見知った子どもが隣のブランコの前に立った。
代は思わずブランコから立ち上がる。
「瑤ちゃん!」
晴れの日だというのに、喪服のような黒い衣装を纏った二つ結びのかわいい女の子。それが瑤ちゃんだった。きっと入学式もこれで出たのだろう。
瑤は代を見つめて、微笑んだ。けれど、なんだか悲しげだった。
「代ちゃん」
「瑤ちゃん、久しぶり! 入学式、どうだった?」
「代ちゃん、駄目だよ」
瑤はわざわざ近づいてから、ちょん、と代の体を突き飛ばした。突き飛ばしたといっても、後ろに一歩後退りする程度のかわいらしいものだが。
代は瑤の意図がわからなかった。
「瑤ちゃん?」
「戻って。お願い。元に戻って」
「あ、待ってよ、瑤ちゃ──」
泣いて、校舎の方へ走っていく瑤を追いかけようとしたところで、何かにがつん、とぶつかったような衝撃が襲い、代は後ろに弾き飛ばされる。
何故か、そこにはブランコがもうなかった。向こうの校舎もなくなっている。
ここ、どこ……?
代は消えゆく意識の中で、瑤のような、瑤でないような、曖昧な少女の声を聞いた。
「白い鳥を探して、見つけて。そうしたら、帰れるから」