ゾンビな世界じゃ婚約破棄とか気にしてられませんので
世界は変わってしまった。
あの日、あの時。変わるべきでないものが失われてしまったのだ……
「貴様とともに生きていく事はできぬ!」
青いと思った。その声に、どうしようもなく色を感じた。
「どういう事でしょうか? 殿下」
「あくまでとぼけるか!」
私、マーマリン侯爵家長女、ヴィヴィアン・ロー・マーマリンは、この時窮地に立たされていた。この時点においてはまるで気が付いていなかったが、まさしく世を変えるほどの一大事だったのである。
場所は王城の一室。玉座には王が座し、部屋の左右には重役たる有力貴族が立ち並んでいる。王との距離は国内における本人の立場を表しており、より大きな権力を持ち王から信頼の厚い忠臣ほどに玉座に近い場所に立っている。王の血族である王子は手を伸ばせば触れられるほどの近く、対照的にこの場で最も離れた場所にいるのは私だ。
この場に呼び出されて早々、先の一言を浴びせられた。
「マーマリンの家が怪しげな研究をしている事は既に分かっているのだ! 王室に隠れての技術開発は、反逆の意思によるものに他ならない!」
「王室に隠れて……?」
「言い逃れはできぬものと思え!!」
王子が激昂する。まるで私が親の仇であるとでも言うように。
私と王子は、年齢が二桁を数えるよりも前から婚約関係である。これは生まれた時から家同士で決められた事であり、それ自体に対して不満を持った事はなかった。そのための苦労も少なくなかったが、それでも生まれてからの全てを国に捧げてきた事を誇りに思っている。
その私が——私の家が、まさか反逆などと。
「殿下、発言の許可を」
「許そう。精々上手い謝罪を用意したのだろうな」
王子の声を聞けば、その怒りがどれほどのものなのかがハッキリと理解できた。決して短くない付き合いと、浅くない関係である。それだけに、話せば勘違いであると理解してもらえると思っていた。
そう……勘違いしてしまっていた。
「薬学研究なら、許可を頂いた上での事ですわ。屋敷に戻れば、証拠の書類が……」
「書類とはこれの事か?」
そう言い、王子の手には羊皮紙の束が握られていた。その面に焼き付けられた家紋を見れば、それが我が家の書類である事は疑う余地がなかった。
「それは……」
「このような拙い偽造で騙せるなどと思われていたとは……なんと浅はかな」
「偽造……?」
偽造でなどあるはずがない。
あの書類は、父——マーマリン侯爵の目の前で国王陛下御自ら許可を頂いたものだ。今まさに尋問を受けているこの玉座の間においてである。その場には多くの忠臣がおり、今この場所にもそれを目撃した人間が多くいる。提出された書類が返った物などではないのだ。
偽造の余地など、ないではないか。しかし、誰一人としてその事を指摘する様子がない。
「まさか……っ」
謀られたのだ。
これは言わば、『偽造書類の偽造』。マーマリンの家を反逆者に仕立てるために取られた、強引ながら最も効果的な策略である。
つまり、この場にいる全ての人間が共謀者なのだ。
「本来ならば極刑は免れない大罪である。しかし、寛大なる陛下は、地下牢への幽閉刑へと減刑してくださった。我が子ほどに目を掛けた貴様に対する、せめてもの情けだ」
「……では、父は!? 母は!?」
「赦せば示しがつかん。救えるのは貴様一人だけだ」
救うと、王子はこの時そう言った。確かに、“救う”と。救うなどと。
「貴様らが行っていた研究は没収処分とし、今後は王室の主導によって進められる」
まるでついでのように話された内容は、しかしこの状況の実態を明確に表しているように思えた。
すなわち、これが本題なのだ。我が侯爵家の研究をそのまま懐に入れてしまう事こそが、その目的なのだ。
そのための根回しであり、そのための偽造。国家が主導する横暴など許される事ではないが、許されずとも彼らは欲してしまった。
「陛下! お考え直しを!」
無意識に、一歩を踏み出していた。しかし、許可もなく国王に近付く事は大変な非礼である。瞬く間に前へ出た近衛兵に、私は取り押さえられてしまった。
床に押し倒され、頬を擦る。上質な絨毯は柔らかく私を迎えたが、それでも顔に傷が付いた。屈強な近衛の腕力で抑えられれば、非力な淑女にできる事などそう多くはないのだ。
「控えよ! 貴様は咎人なのだぞ! この場で縊られたいかっ!」
「お聞きください! 研究は失敗したのです! 誰がどのように手を加えても完成などしません! 不老不死などないのです!」
不老不死。それこそが、侯爵家の研究内容だった。
それは、古今東西の権力者を魅了してやまない魔法である。我が国の国王もその例に漏れず、かつて誰もなし得なかった永遠を手に入れようとしたのだ。
マーマリン侯爵家は、特に薬学の方面から手をつけた。今までの歴史資料を見る限り例が少なく、あるいは手付かずの発見が残されている可能性を見出されたのだ。
しかし、結論から言えば研究は失敗だった。
あんな物をどれほど研究しようとも、国王が望むそれに到達する事は決してない。
そのように報告すると、間を置かずに今回の事態である。従順でなくなった侯爵家に代わり、どこか別の家に研究を任せるつもりなのだろう。私を生かすのも優しさなどではない。せいぜいが、研究内容に不明瞭な点があった場合の保険。必要がないと分かればあらためて処刑の理由をつけるだろう。
「我が家がこの研究を破棄しようとしたのは! この研究をすべきでないと判断したからです! 手を出してはいけません!」
私は必死に叫んだが、それが聞き入れられる事はなかった。
どれほど熱心でも、誠実でも、ひたむきでも、真剣でも、本気でも、欲にくらんだ目を覚まさせる事などできないのだ。
◆
「…………っ」
懐かしい夢を見た。酷い悪夢だ。
瓦礫の隙間に安物の布を張り、壁にもたれかかるようにして眠っていた。足の裏は床から離さず、しゃがみ込むようにして。もしも寝転がってしまえば、起きた時に立ち上がる事ができないだろうと考えての行動だった。酷く眠りが浅いが、それは充分な利点として受け入れるしかない。
あの日を引き金として、世界は変わってしまった。
城は砕かれ、畑は踏まれ、人々は倒される。もう何年も、私は私以外の人間に会っていない。両親は処刑されてしまっただろうが、それとは関係なくこの国にはもう何人も生きていないだろう。
公式には、正体不明の病原体が原因とされている。
これに感染した人間の二割が死亡するという脅威の猛病であり、事実確認が取れているだけでも国内で二万人以上が命を落とした。しかし、これの恐ろしさは致死率の高さだけには止まらない。これに感染して生き残った人間こそが、最も悍ましい症状を見せる事になるのだ。
「……見つかったわね」
ここ数年で、ほんの僅かな物音に反応して起きられるようになった。生き残るために必要になる特技であり、これができない人間は全員命を落とした。
瓦礫の隙間に身を潜め、音の方向を目で追う。身長の半分もある杖を構え、間もなく訪れる危機に備えた。
それが瓦礫の向こうから姿を表すと同時に、魔力を纏わせた杖で斬りつけた。
ゾンビ。
そう名付けられた腐肉の塊は、肩から腹までをわかたれてなお叫び一つあげない。ゆったりとした不気味な動きで人間を追い、噛み付く事によって症状を感染させる人間の成れの果てである。
傷口からは何も噴き出さず、血は滲み出るようにドロドロと流れる。心臓が動いていないためだ。その上黒く濁り、粘性も高い。そんなものに近付く不快感も、やがて失われてしまった。
杖を横向きに振るうと、大した抵抗もなく首を刎ねられる。生きている人間ならばこうはいかないが、肉が崩れかけて魔力も纏わない人体であれば泥を切るほどに容易かった。
跳び上がった頭は、最高地点でほんの一瞬静止する。そこを目掛けてもう一度杖を振るえば、弾けるように頭を砕く事ができる。
ゾンビはどれほど体を傷つけられても活動できる奇病だが、唯一頭を砕けば絶命するらしい。残された肉体は糸が切れた人形のように倒れ、時間と共に腐敗が進行する。
酷く醜い。
これ以上に人の尊厳を貶める死に様は存在しないだろう。
私は、こんな生活を何年も続けていた。
そんなある日である。
「馬鹿なっ! まさか城まで!」
崩れ、落ち、風にさらされたこの跡に相応しくない声が、無闇に主張を激しく響いた。そして、それは私にとって知らないものではなく、さらに不幸にもその声を聞きつけたゾンビの蠢く音が続いたのだ。
「ぅわぁ!? 助けてぇ!」
情けなく駆ける音は、残念にも私の隠れる方へと近付いているようだった。そうでなければこのまま潜むつもりだったというのに、どうやら面倒を収める必要がありそうだ。
姿はまだ見えないが、確かに近付いている。
ここは、かつて玉座の間として使われていた場所だ。今では見る影もない、この世の運命を変えてしまったこの場所だが、どうやら声の主は記憶を頼りにしてここへと向かって来ているらしい。
愚かしくも、父親が生きている可能性を捨て切れていないのかもしれない。
「こっち」
「え!? お、お前……!」
時を見計らい、声の主の左手を引く。崩れ、落ちて、雨も風もまともに防げないような場所になってしまったが、割れた隙間や歪んだ窪みなどによって入り組んだ迷宮を形成している。足の遅いゾンビをまくのにこれほど適した場所もそうはないだろう。もっとも、それは何年もこの場所で暮らし、その構造を知っている私だからという前提だが。
「ま、待ってくれ……っ! もう……走れ……ない……」
「……まあ、ひとまずは落ち着けるでしょう」
凹凸、段差、床の裂け目。そんなところを飛び跳ね、屈み、乗り越えながら走ってきた。ここはもうかつて何に使われていた場所なのか分からないほどに崩れているが、裂け目から流れ出る水が床を濡らしているところを見るに水場の近くである。例えば厨房や洗い場。あるいはそれに隣接する施設だろう。
差し当たり水に濡れない場所に腰掛け、ようやく会話をする余裕が生まれる。息を切らしている相手に代わって、第一声は私が担った。
「お久しぶりですわ。ラディスラス・オード・パーシヴァル・ダイクロート王子。体力が落ちたのではなくて?」
「はぁ……ヴィヴィアン・ロー・マーマイン、ふぅ……よもや貴公が健在であったとはな……」
私を地下牢になど閉じ込め、この世を終わらせた張本人。確か騎士団の遠征に着いて行き、その間にこの騒動が起きたと記憶している。おおかた騒動の広がりに捕まって命を落としたものかと思っていたが、しぶとく生きていたようだ。
「この奇病の主立った感染経路はゾンビからの粘膜接触ですわ。その点、私は実態が知れるまで安全を確保できましたので運が良かった。えぇ、えぇ、地下牢におりましたので」
「う……ご、ごめん」
王子の返答は、私にとって驚くべきものだった。まさか、皮肉に気がつくだけの知能があるとは。
既に国への忠義を失ってしまった(というよりも国が亡くなってしまったのだが)私から見て、この低俗で無能で愚かしい血筋だけの七光りはもっと頭が悪いと思っていた。言葉の裏になど気がつけないだろうと。
「お亡くなりかと思っていましたわ」
「あ、ああ。騎士達が命を賭してくれたおかげだ。……道中で我が国の惨状を報され、大慌てで取って返した。途中でゾンビに襲われ逃れながらだったので、帰還に数年もかかってしまったがな」
「帰還というより、落ち延びたと言った方がよろしいでしょう。なにせ、国などもうないのですから」
「……そのようだな。父も、母も、もういないのか」
「国王は病に倒れました。王妃はゾンビに」
「ああ……なんと……そんな……。何故こんな事に……」
婚約関係にあった時ですら見た事のない顔で、王子が泣く。額にはあぶら汗。子供のように声を上げないのは、王族としての矜持だろうか。しかし、すすり引き攣る事までは抑えられなかったらしい。ただ涙を溢れさせ、喉を搾るような音を水に響かせた。
そんな様子が、酷く腹立たしい。
「貴方のせいですわ」
「……なんだと?」
王子が顔を上げる。怒りの表情をたたえて。しかし、私がどれほど怒っているのかまでは、どうやら理解できなかったらしい。
そう、私は怒っている。激しく、熱く。
それを理解しないままでいる事など、許せないほどに。
なぜなら——
「——私は言いましたわ。『考え直してください』と、『研究は失敗しました』と、『不老不死などない』と。それを無視して握り潰したのは、他でもない貴方ではありませんの」
「……え?」
表向きは、突如として現れた奇病が原因であると発表されている。しかし、その実態が異なる事は、私が一番よく知っていた。
不老不死の薬がもたらした、あるべきではない失敗である。
あの薬を飲めば、その人間は半永久的に生命活動を続けられる。血の、肉の、臓の、骨の代わりを担う魔力的アプローチにより、身体のほとんどを失っても絶命しない不死性を獲得する事ができるのだ。薬に配合された薬草と特殊な魔法式により、人体をそのように組み替えてしまうのである。
しかし、その副作用は看過できないものだった。全ての生き物にとって魔力は生命活動に不可欠な力であり、当然人間もそれは例外ではない。その魔力を別の器官の維持に使用するとどうなるかという、当たり前の疑問に直面してしまったのだ。
結果、その肉体は生きたままにして死体となる。
ゾンビが魔力を纏っていないのは、そのような理由からだった。本来は必要のないはずの事柄に利用されているため、身体を満たすべき魔力が存在しないのだ。
この肉体干渉に耐えられる確率は、統計的には八割。耐えられなければ命を落とすが、その方が遥かに恵まれていると思わざるを得ない。
「人体実験を繰り返し、やがて手に負えなくなったゾンビを始末し損ねた結果がこの世界ですわ。これは、もしも私の言葉を聞いてくだされば、起こり得なかった事ですの」
「そんな……だって……父上が、母上が……それは……ああ……」
浅い呼吸で、王子の視線がブレる。目を開いていても、何も見ていない。
それほどに、衝撃的だったようだ。自らの愚行によって、両親を失ったというのだから。
あるいは、何か言い訳でも考えているのかもしれない。父親から言われただけだとか、断れなかったとか。しかし、そんなものが理由になるだろうか。両親が死んで仕方のない理由など、果たして存在するのだろうか。
間もなく、夜の帳が下りる。人の目は利かず、不意の遭遇に対応ができなくなる時間だ。
震えて呆然としている王子を置いて、私は一眠りする事にした。
◆
ほとんど崩れてしまった城の中には珍しく、そこには月の明かりが差していなかった。シトシトという水音を響かせてはいるものの、今では珍しくなった人間の生活圏である。
暗がりの中、足場の悪い中、ほとんど寝息を立てずに眠っている少女に近づく影があった。そろり、そろりと、足音を隠しながら。時に手を着き、大きく身を屈ませ、瓦礫の足場をゆっくりと動く。
ゾンビだろうか? いいや、そうではない。
少なくともまだ、彼は人間だった。
「……何のつもり?」
「…………」
気配、音。そういったものから何者かの接近を察した私は、ここ数年で培われた特性として目を覚ました。杖を素早く構え、突きつけ、その相手を両断してしまおうとしたところで、相手の正体に気が付いたのである。
王子だ。彼が、眠っている私に忍び寄っていた。
暗がりで、顔がよく見えない。しかし、その浅く小刻みな呼吸が、その肉体に生命が失はれていない事を示していた。ゾンビならばあり得ない事である。
「貴方、眠っている私に何をしようとしていたの?」
「わ……私は……」
王子は言い淀む。
自らの行為に正当性を見出せずにいるのだ。糾弾されれば反論の余地はない。しかし、それでいてせずにはいられなかった。
すなわち……
「這おうとしましたわね?」
「……っ」
夜這い。
命の危機に瀕した生命が、種の保存を優先しようとする事は何もおかしなものではない。しかし、私たちは道理の分からぬ獣ではない。本能よりも優先すべき事を理解し、この世で有数の知性を持った“人間”なのだから。
「じ、人類は私達しかいない、かもしれない……存続……の、ためには……必要な事、が、あるかと……」
「言いたい事はそれだけですの?」
愚かだと、間抜けだと、無知だと、蒙昧だと、常々思っていてもなお足りなかった。まさかここまでだとは、まるで知らなかった。
両親を失って、国を失って、その上で我すらも失って。そこまでならばまだしも、良識すら捨て去ってしまうほどの愚物。常識の通用しないこの世界にあって、人を人たらしめる唯一すらも持とうとしていないのだ。
「貴方は、勘違いをなさっていますわ。王子」
「勘、違い……?」
「そう、そもそも人類は既に滅びたの。ここにいるのは一人ずつの人間であって、存続もなにもありませんわ」
理解など、できないだろう。数年を孤独に過ごしてようやく辿り着いた精神性である。
しかし、譲る事はできなかった。私は子を成さず、最後の人間として独りで死ぬのだ。そう覚悟を決めた以上、誰と添うつもりもない。例えば病にかかり、あるいは怪我をして、あわよくば歳をとり戦えなくなった後に食い殺されるとしても、その時には必ず独りきりで死のうと決めたのだ。
「仮に私が身重となって、貴方は守ってくれますの? 子を取り上げられますの? 育てられますの? こんな世界で、人類並みの幸せなど望めないのです。だというのに、我が子をわざわざ地獄に産み落とす親がいましょうか? 産まない事が最も誠実な愛ではなくて?」
「ぐぅ……っ! わ、たし……は……!」
「……?」
王子の様子がおかしい。
腕を抑え、苦しみ出した。その様子は、耐え難い苦しみがとうとう限界を超えたように。
……いや、事実そうなのだろう。
種の保存。命の危機に瀕したのなら、優先してもおかしくはない。
そう、命の危機だ。思えば、王子の様子は初めからおかしかった。私が走って汗もかかないような距離で息を上がらせ、ずっとあぶら汗をかいていたではないか。数年の生活によってできた体力の溝かと思っていたが、あれはそんな単純なものではない。
すなわち……
「右腕を見せなさい!」
「わ、わたし……は」
「っ!」
王子を助けるために引いたのは、左腕だった。もしも逆の手を引いていたならば、気が付かないはずはない。暗がりに目が慣れ初めてようやく分かる黒ずんだ傷口、特徴的な跡。見間違えるものか。それは、この数年で幾度となく目にしてきたものなのだから。
「感染していましたのね」
この暗さではよく見えないが、きっと眼球も濁っている事だろう。全身の筋肉に異常が出るため、表情も引き攣っているかもしれない。喋りにくそうにしているのがその証拠だ。血液の採取ができれば、その粘性が生命のものではなくなり始めている事が分かるだろう。
そのどれもが、ゾンビになる予兆である。
「噛まれていましたのね、既に。会った時からずっと」
隠していたのだ。あるいは認めたくなかった。
そもそも、騎士が全滅するほどの被害を受けていながら無傷である方が不自然な話だった。
もう助かる事はない。例え術があるのだとしても、今の私では知りようもない。ものの十分ほどの間に世界を再び変えてしまうような技術が見つかってしまうのでなければ、王子の命運は既に定められてしまっているのだ。
「まっ……待って、くれ……っ! しに、死、たく……」
「…………」
愚かな王子でも、状況を理解したらしい。私が何をするのかも、正確に。
杖を持ち、構え、振り払うのに数秒もいらない。幾度となく繰り返した動作であり、一度として仕損じた事もない。
——そして、今回も……
◆
こんなにも静かな夜は、一体いつぶりだろうか。
少しでも落ち着ける時間はほとんど眠っているので、すっかり忘れてしまった。
水の滴りとわずかな隙間風、あとは隣でほろほろと崩れる亡骸だけが、微かな音を奏でていた。
せめて、人間のまま死ねただろうか。
それは決して救いではないものの、しかし多少はマシな絶望に違いなかった。幾度となく同じ事をして、これからもきっと似たような事をして、それから後悔などしないだろう。実際、今もしていないのだから。
ただ、一つだけ思う事があった。
喜怒哀楽の全てと違う感情で、言葉で言い表すには小さ過ぎる心の動き。それが私の行動を左右する事などあるはずもないが、それでも確かに私が人間である事の証左であるように思えた。
「こんなに話したのは、久し振りですわ……」
人類最後の生き残り。
辛うじて命を繋ぐ者。
殺しを禁忌と思わなくなって久しいが、少なくともまだ人間であるらしかった。
そう遠くないうちに死んでしまうだろう私は、きっと人間として命を落とす。
私は、いつものように浅い眠りについた。
杖を抱き、床から足を離さず、すぐに起きられる体勢で。
明日の朝を、また迎えられるようにと祈りながら。