優しくされると泣きたくなる
ぼくは、優しくされると泣きたくなってしまう。
たとえばそれは美容室だったり病院だったりする。ぼくのひょんな失敗をつつみこんでくれる優しい言葉に、何度泣かされ、いっそぶん殴ってくれと望んだか。
とにかくぼくは、人の優しさにとんと弱いのだ。
人に優しくありたいと思う。でも優しくしてほしいとは願っていない。それは予想外の出来事だ。聞いていない。
「あの、この席どうぞ」
それは青天の霹靂だった。電車でこらえきれず涙を流していると、席を譲られたのだ。
かすんだ目でよく見ると、それは女子高生だった。
ぼくは全身が青ざめた。こんな不審極まりない男に席を譲るなんて最近の女子高生も捨てたものじゃないな。ではなくて、座ったら最後、変態と罵られ、署まで連れていかれるのではないかと危惧したのだ。
「い、いえ……」
ぼくはすぐさま拒否し、他の車両に移動しようとしたが、そこで思い当たった。
これは善意の裏切りではないか、と。
まだうら若き女子高生がせっかくこんな小汚いおじさんに席を譲ってくれたというのに、それを無碍にするのか?
ぼくの情けない姿を見、勇気を出して声をかけてくれたのでは?
次の瞬間、ぼくは座っていた。手に汗を握って。自分の出した答えが正しいと信じて。
女子高生を盗み見ると、もうすでにぼくから視線を外し、外の風景を眺めていた。
ぼくはなんだかあったかい気持ちになって、また涙が押し寄せてきたが、女子高生の手前必死に我慢した。
この世界には優しいがあふれている。ぼくはこの先とても生きて行けそうになかった。
人の優しさは有難いけれど、もったいない。ぼくには身に余るのだ。その優しさを返せない自分に腹が立つ。なにも返せないぼくが、それをもらっていいのかと恐怖すら感じる。いっそ手ひどくされたほうがまだ良い。
「小田君はあれかな、心が弱いのかな」
バイトの休憩中、店長にバックヤードに呼び出された。
「え……」
店長は困ったような、笑うような調子で続けた。
「仕事はよくやってくれてるし、必死なのも伝わってくるよ。けれどもさ、そんなんじゃあ、この先どうするの? 心配になるよ」
ぼくはどきりとした。この類のことを言われたのは初めてじゃなかったからだ。
いやな記憶がよみがえってくる。
「僕はさ、君を見てると不安になるよ。ひやひやするというかさ……。もうちょっと自信をもって……」
店長の声はまだ続いているが、ぼくの耳はそれを拒否していた。
それをぼくに言ってどうなる? 今までの生き方はどうしたって変えられない。
はい、頑張りますと適当に言って、その場をやり過ごせば済むのに、ぼくにはそれができなかった。
「あの、店長……」
暗い。ここはどこだろう。どこでもいい。誰もいないのならちょうどいい。どうせ人と共存なんてできやしないんだ。なぜ人は生き、死ぬのか。なんのために生きるのか。
ぼくの頭は哲学に逃げることで、現実逃避をしていた。
今、誰かがぼくの足音を聞いたのならゾンビだと思い、顔を見てしまったのなら、やはりゾンビだと思うだろう。
店長にとっさに辞める宣言をして、二時間後。ぼくは知らない街を徘徊していた。
自宅に向かっていたはずだが、電車に乗ったあたりから記憶がない。
「まあ、いっか……」
疲れているのかもしれなかった。特に趣味もなく、胸の内を明かせる友達もいない。家族には顔を合わせるたびに叱られ、心配をかけた。
生きていても、死んでるみたいだった。
ただあてもなく歩く。歩いて歩いて歩いた。
どこかから定期的に音がしていた。その音に導かれるまま歩を進める。
そこは、あちらとこちらを隔てる小さな川のようで。同じように導かれた虫たちが吸いついていた。
あっちに行けば、“大丈夫”になれる気がした。
ぼくは手を伸ばす。音が聞こえる。だんだん近づいてくる。虫たちが飛ぶ。光が眩しい。カンカンカンカン!! 耳元までそれが迫った時、後ろから思いきり引っ張られた。
ぼくは尻もちをつく。
「なにしてるの!! 死にたいの!?」
目の前を猛スピードで電車が駆け抜けていった。
「なにか言って……けがしてるの?」
女の子、と思われる存在が前に回り込んでくる。
「やだ……顔がぐしゃぐしゃ」
なんだこの子は失礼だなと思ったが、後から自宅の鏡で見てみたら、本当にぐしゃぐしゃだった。
「これで拭いてください」
女の子は恐る恐るハンカチを差し出した。
「いやだ……」
「え?」
「ぼくに優しくしないでええええ!!」
号泣だった。それはもうダムが決壊したごとく泣いた。
「ごわかった……!! じにだぐない……!!」
惨めだった。三年も続けたバイトを店長の一言で辞めたことも。見ず知らずの女の子の前でこれでもかと泣く自分も。
「いやだいやだ! じにだぐない! じにだぐない!」
「落ち着いて! 私でよければ話してください」
ぼくはその一言でまた泣いた。
どれくらいそうしていただろう、気が付けば女の子のハンカチを情けなく握りしめ、ぽつぽつと話し始めていた。
「ほんとは人が好きだ……。優しくしてもらった何倍も、人に優しくしたい。けれど人が怖い。できれば関わりたくない……」
ぼくの支離滅裂な言葉にも、女の子はうんうんと頷いてくれた。
「もっと強くなりたい。誰にも迷惑かけないような……そんな人間に……でもそれは」
「でもそれは、あなたじゃないですよね」
「うん……」
そうだ、それはもうぼくですらない。本当のぼくは弱虫で、人一倍、人に優しくありたいと願うぼくだった。
「それでいいと思います」
「薄情だね」
ずびっと洟をすすると、目の前の子は笑った。
「私は、そんな風に思えないから。優しくした分、返してほしいと思うし、人なんて別に好きでもなんでもないし」
「でも君は助けてくれた」
「そりゃ目の前にいたら……」
「席だって譲ってくれたし」
「え……」
そうだ。彼女には二度も救われていた。
「そうそうできることじゃない」
そう言うと、照れくさそうにまた笑った。
それからぼくらは連絡先を交換し、定期的に会う約束をすることもなく、近くの駅で別れた。
彼女に家まで送ろうか、と訊いたがすぐそこに家があるらしく、それは断られた。
残ったのは彼女のハンカチのみで、苦笑いしながらあげますと言ってくれたので、お言葉に甘えることにした。
彼女がなぜあそこにいたのか、それを知ることもなくぼくはまた明日を迎える。
現状はなにも解決していないけれど、なんだか少しだけ、自分が好きになれた気がした。