プロローグ
「それじゃ、お先」
定時から一時間ほど過ぎた、午後十九時半。
三十代、もしかすると二十代後半にも見える、グレーの若干くたびれたスーツを着た男は、未だ室内に居残る数名の部下たちに向けて軽く帰宅の挨拶を済ませると、革製の通勤鞄を手に、カツカツと足音をフロアに響かせながら外へ向かった。
彼が首に提げていた社員証をカードリーダーにかざすと、ピッという電子音と共に扉のカギが解錠される。それを聞きながら、部下たちが口々にぼやく。
「加藤部長、相変わらず早いっすねえ」
「いや、今日は遅いほうだろ」
「〆の週でもない限り、滅多に残業しないからな」
「一日のタスク終わったらとっとと帰る、居残り残業なんて非効率だ、が口癖だしなあ」
「あれで部長になれるんだから、うちの会社ホント風通しイイわ」
「だな、俺らもさっさと終わらせて帰ろうぜ」
「ういーっす」
そんな部下たちの噂話など知るよしもない加藤はその頃、男性用トイレの個室に籠もっていた。
「……外に人影なし、近付く足音もなし、と」
誰かに聞かれたら、産業スパイを疑われそうなセリフと共に、薬指に銀の指輪を填めた右手をかざす。
『次元移動』
呟きと共に、彼の姿は唐突にかき消えた――直後。先ほどまでいたオフィスビルとは明らかに異なる、生活感あふれた部屋に現れる。
「ただいまー。あー、満員電車に揺られないで家に帰れるの、ほんと便利」
もしも、彼が消えた場所と、再び姿を現した位置を同時に観察できる人物がいたならば、さぞかし驚いたに違いない。何せ、今加藤がいる部屋から彼が先ほどまで居た職場へは、十五キロほど離れているのだから。
文字通りの瞬間移動。現代科学では到底成し得ない、奇跡の技である。
日本のどこにでもいそうな(ちょっとだけくたびれた)ごく普通のサラリーマンにしか見えないこの男は一体何者なのか。それは、彼をいちばんよく知る人物――本人の口から語っていただこう。