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第七話~中等部3年

翌年、中等部の3年に上がる頃には、みな思春期の中盤に差し掛かり、次第に成熟した体躯と容貌を備えるようになった。博和は球技はテニス以外は苦手で、いやそもそも運動自体が得意ではなかったが、必要最低限の肉付きで、清潔感に溢れたその容姿は好意的に評価されるようになった。同級生の女子の間では、博和はちょっと神経質そうな、中性的なイケメンという評価だったが、性徴期真っ只中とあっては、女子達の人気はいかにも牡のオーラを発散する体育会系の筋骨隆々とした男子生徒に集中していた。だが、当の博和自身は女子受けなど気にすることではなかった。


 6月のある日。図書室のデスクトップPCでモンティ・ホール問題の証明を検索していた博和は、窓の外が夕暮れに差し掛かっていることに気付いた。鞄に本やノートを詰め込み、帰宅の準備をする。図書室を出て、長い廊下をさして急ぐでもなくゆっくりと歩いて、3回の窓から校庭を眺めた。運動部のかけ声がかすかに聞こえる。10人程の女子がいて、サッカー部の試合を観戦している様子だった。博和は、その中に美幸の姿を見た。博和もよく知っている彼女特有の仕草――興奮してぴょんぴょん跳ねて、何か叫びながら誰かに手を振っている。やがて試合も終わり、女子の集団に向かって笑顔で歩いてくる部員の一人に、美幸はタオルを渡した。それを使って顔をぬぐうと、彼は美幸の肩に手をまわした。


 博和はその一部始終を見つめていた。

と同時に、廊下にカルキの匂いが漂ってきたことに気付いた。その元は、博和から数メートル離れて同様に校庭を眺めている睦美だった。シャツの袖を肩までまくり上げて、部活用バッグをリュックのように背負っている。今では背中の半ばまで伸びている髪は少し濡れていた。博和に向かって横を向いているおかげで、長身で均整のとれたS字型スタイルが見て取れる。博和は再び校庭の美幸に目を戻した。タオルを渡したサッカー部員と一緒に、どこかへと歩いてゆくところだった。


「……あれって、武藤さん、だよね?」


カルキに混じった微かな甘い体臭が鼻腔をくすぐる距離まで、いつのまにか睦美は近づいていた。


「そうだね」


博和は出来るだけ感情を表さずに答えた。


「相手も知ってる。一度わたしに告白してきたからね」


くっくっと睦美は笑った。博和は睦美の横顔をちらと見た。

長いまつ毛、すっきりした鼻筋、小さく整った唇。

ふと、睦美は首をかしげて、博和を下から覗き込むような姿勢になった。


「……佐伯君が身近な人に求める条件て、誠実さ、なんだよね?」


その問いに博和は答えることはなかった。睦美はさらに体を近づけて、博和の目線を捉えた。


「彼女は誠実、なのかな?」


博和は長く沈黙していた。美幸と相手の男はとっくに帰ったあとで、もう校庭にはほとんど人影は無かった。博和は幼馴染である美幸との記憶に想いを馳せた。幼稚園の頃から一緒だった。小学校低学年の頃は誕生日を両親と一緒に祝ったこともある。苛められていた博和を庇ったことや、毎日のように一緒に登下校したこと。一緒に進学塾に通い、共に合格したときは双方の両親も交えて高めのレストランで食事会をしたこと。ところが突然美幸のほうから距離をおきだしたのは去年からだったか……

ようやく博和は口を開いた。


「武藤さんは、僕の恋人ではないから、誠実なんじゃないかな」


こんなつまらない返事しか出来ない自分自身に博和は呆れた。


「じゃあずっと女友達のままの幼馴染だったんだ?」


睦美の目は笑っていない。真剣な表情だった。


「……そうだよ」


「じゃあ今でも友達だと言える?」


博和はもうこの話題につきあいたくなかった。美幸が怒ったときのことを思い出す。


「どうでもいいだろ。不誠実だったのは僕のほうかもね。三枝さんには関係ないことだよ」


博和は睦美に背を向けてその場を立ち去ろうとした。今日見たことも話したことも、みな早く帰って忘れたかった。が、博和の後ろ手を予想外の力で睦美は掴んだ。


「関係なくないよ!じゃあ佐伯君は悔しいとかなにか感じないわけ?」

「……全然。大体、中学生の恋が成人するまで成就するなんてありえないだろう?」


みんなそれぞれに気持ちは変わってゆくものさ。いつまでも思春期の感性のままでいることなんて出来っこない。美幸がさっきのサッカー部の男と結婚することもないだろう。


「じゃあ、わたしのことはどう思う?もし今のわたしと、武藤さんの立場が入れ替わっていたら、それでもなんとも思わない?」


博和は再び黙った。振り返ると、睦美はどことなく緊張して、それでいて少し悲しそうな表情だった。


「……いや、それは……そうじゃなくて、そのぅ、正直あんまりいい気はしない、と思う……」


何故か博和はしどろもどろになって口を濁した。睦美はその様子を見て少しばかり表情が緩んだ。


「ね、たまには一緒にゆっくり帰らない?」

「帰るって、三枝さんはタクシーだろう?」

「あら、わたしが電車で帰っちゃいけないの?」


校舎には生徒がもうほとんど残っていない。博和は急いで学校を後にした。そのすぐあとに睦美が続く。


大船駅のホームで、二人は並んで立っていた。博和はそれと知られぬよう、慎重に睦美を観察した。

彼女の身長は博和とほとんど変らない。ネクタイは第2ボタンのあたりで雑に結んでいる。首元にはあまり目立たない、簡素だが高価そうな細いネックレスを下げている。胸は自己主張激しくシャツを内部から押し上げていたが、S字の流麗な体躯のバランスを崩すような大きさではなかった。髪はもう乾ききって、かるく風になびいていた。スカート丈は膝から上、指2本分程短い。その分、引き締まった長い脚が目立つ。その脚にも、肩口までむき出しになってすらりと伸びた腕にも、傷やしみなどひとつもない。


「……あのね、わたしクロールで最近いい記録出したんだよ」

「ふむ」

「50mで25秒12。けっこうやるでしょ?」

「そりゃすごい!」

「わたし、スポーツでは佐伯君に完勝だね。総合でわたしの勝ち!」

「……認めるよ」


博和は急に緊張し始めた。パーソナルエリアにずかずかと入り込み、ほとんど肩が触れ合う距離、もうカルキの匂いはすっかりぬけて、思わず深呼吸したくなるような独特の芳香の体臭が漂う距離に、あらゆることに秀でた同年齢の美少女がいる、という事実を意識してしまったのだ。今までは美幸が緩衝材だったが、そう、博和は体感としてすぐ傍に非常に魅力的な異性がいることを意識してしまったのである。


そこへ列車が来たので二人は早速乗った。ちょうど帰宅時間帯なので、車内はかなり込み合っており、あっというまに二人は反対側のドアに押し付けられた。博和は睦美と体が密着するのを感じて、ドアに手をついてあらん限りの力で睦美から、自分自身と他の乗客を引き離した。それはちょうど、博和の伸ばした腕の中に睦美を閉じ込めるような形になっていた。必死になって体を支える博和の姿に、睦美はちょっと微笑んだ。


「わたしね、さっきのサッカー部の男、まあ長田秀人っていうんだけどさ、それ以外にも20人くらいには告白されたっけ。『今そういうことには興味無いんです、ごめんなさい』っていつも返すのだけど、機嫌が悪いとちょっと酷い断り方をしたこともあるな」


そう囁きながら、睦美は博和の腕にちょっと触れては離す、というタッチを繰り返す。


「高等部の先輩が言い寄ってきたのはちょっと引いたな。壁ドンまんまなんだもん」

「……さすがにモテるんだね、三枝さんは」

満員の車内でそう返すのが博和にとって精一杯だった。


「どんな男が三枝さんのタイプなの?」


いきなり睦美は博和の腕にもたれかかった。そして数瞬の思案の後に、


「……あえていうと、わたしにない資質を持っている人かな。といっても、普通の女の子が憧れるような、体育会系のマッチョマンじゃなくてね。わたしは自分の身は自分で護る自信があるから」


そんな微妙な会話を続けるうちに、列車はもう逗子駅に到着した。大船-逗子間はおよそ15分。


「じゃ、僕はこれで」


改札口で博和は別れの挨拶をした。


「え?なんで?家までいこうよ」

「だって僕は自転車だし。三枝さんはタクシーじゃあないの?」


ふふっと睦美は笑って、


「自転車は二人乗りできないの?」

「僕のはマウンテンバイクだからなあ……」

「じゃあわたしは歩くから、佐伯君は自転車で付いてきてね?いい?」

「……OK、わかった」


博和と睦美は、共に、すっかり暗くなった家路についた。

博和は睦美とこれほど長い時間、二人っきりになったことは無かった。


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