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第六話~中等部2年

結局、その年は睦美と校内でランチを共にしたのはその一回だけだった。相変わらず彼女は孤高の存在、男子学生にとっての高嶺の一輪の花のままで、博和にとって一番身近な異性といえば美幸だった。だがその美幸も3年が近くなり部活に本腰を入れ始めると、博和との接点も次第に薄れていった。

 11月のある日の下校途中、博和は美幸と横須賀線で向かい合って座っていた。美幸は博和に話しかけずに、しばらく俯き、そして車窓の外を眺めていた。そうして、はじめて口を開いた。


「博和、最近どう?」

「どうって?特に変わったことはないよ」

「……そうかな。わたしから見たら結構変わったよ、博和」

「何処が?」

「なんだか昔より自信がついて、堂々としてきた」


そこで一旦言葉は途切れた。小学生の頃を博和はあまり思い出したくなかったが、小学5年の時に、美幸が身を挺して博和を苛めから庇ってくれたことを良く覚えていた。


「美幸は、やっぱり可愛いままだよ?」


美幸は気弱そうに微笑んだ。それは、いつもの表情豊かな彼女からは想像もつかない程弱々しい微笑みだった。


「来年は高等部進学考査があるからちょっとはがんばらないとね。勉強ならいくらでも面倒みてあげるよ」

「……進学考査、ね……」


博和や美幸達の通う湘南学園は中高一貫教育であるが、中等部の3年の秋に高等部への進学考査がある。中等部の授業をそこそこ理解していれば、楽々と高等部へ進学出来る筈である。


「……進学考査なんて簡単だろ?落ちる人なんてまずいないって話だけど」

「落第する人だっているよ!そして他所の高校に行っちゃうんだ」


突然美幸は気色ばんで叫んだ。車内で何事かと、サラリーマン風の男や主婦達が振り返る。


「……なんだよ一体?どうしたんだよ?」

「博和にはわかんないことだよ。博和はあたしなんかとはもう別の世界の人だよ……」


彼は呆然とした。何か美幸の気に触るようなことでも言ってしまったのか?


「その……僕が何か悪いことを言ったのなら謝るよ。どうしたのさ……」


丸顔にくりくりした大きな瞳、ともすればおおげさに表情を映し出す唇。思春期真っ只中の肉感的な体躯。そういった美幸の魅力だった特徴全てが、いまや目前の博和を責め立てるように迫ってくる。


「博和はあたしなんてバカにしてるでしょ? 毎回追試で、授業についていけないあたし達みたいなおちこぼれなんて、眼中にないんでしょ?」

「そんな筈ないだろう?僕はいくらでも美幸の力になるよ」

「もういいよ」


ちょうど鎌倉駅に着いたところだった。


「あたし、ここで降りるね」


ハイランドの住人にとって、最寄り駅は逗子駅である。美幸はあえて博和との帰路を拒んだのだ。


女の子だから、機嫌の悪い日だってあるさ。博和はあまり深く考えないようにした。美幸はたしかに幼馴染――それこそ10年来の――であるが、かといって世間一般でいうところの『彼女』といえるほど、深い仲ではない。それでも、10年か15年後に、博和は美幸が他の男と手をつないで子供を連れて歩く姿を見れば、幾分ショックを受けるだろう。それはまだまだ先の筈であった……


冬休みに入り、博和は一度行って見たいと思っていた鉄板焼きの高級レストランを予約した。彼は痩せぎすな体型で、小食気味だった。だから一度ホンモノの名店の味を試してみたかったのだ。父は大学で学生相手に卒論と修論の指導の追い込みで忙しく、母はそんな父に生活時間帯を合わせているので、休日の博和の食生活はどうしても乱れてしまう。そんなわけで、彼は「外で食べてきて」という母の願いもあり、こうして小町通りのその店へとやってきたのだ。

 シャンデリアと窓のステンドグラスが洒落たアールデコ調の店内は予約制ということもあり、少数の客しかいない。博和は窓際の席に座り、メニューに眼を通していた。伊勢海老、アワビ、和牛の霜降り、温野菜セットもある。どれも高価だが、博和の予算には十分納まる金額だった。ふと店内を見渡せば、奥のソファー席に2人の女性客が仲睦まじげに話し合っているのが見えた。奥に座っている女性は横顔がちらりと見える。あれは……


「あれ?佐伯君?」


彼女――三枝睦美――も気づいたようだ。立ち上がってわざわざ博和のテーブルにやって来る。


「佐伯君、こっちのテーブルに来なよ。空いてるよ?」


睦美はいかにも高級そうな薄くブルーの入った白いノースリーブワンピースを着ている。博和はジーンズにセーターという自分の姿が、いささか恥ずかしくなった。


「ほら、」


睦美は博和の手をひいて店奥のテーブルに連れてゆく。博和と睦美は並んでソファーに座り、向かいにはもう一人の睦美……成長して途方も無い美人になった睦美……が居た。彼女は肩がむき出しになったシフォンシャツと、体型を強調するかのようなハイウェストのタイトスカートという姿だった。深い知的な表情で、申し分の無い目鼻立ちの中に、男女問わず自分の存在を認めさせずにはおかない、といった絶大な自信を漂わせている。それでいて、清廉な雰囲気を醸し出す、20代前半の美女だった。なにか面白そうな、海外の珍しいおもちゃを見るような眼差しで博和を観察している。


「佐伯君、こちらはわたしのお姉ちゃん」

「妹からよくお名前は伺っております。三枝繁美と申します」


彼女は軽く会釈した。


「あ、あっ、佐伯博和と申します。よろしくおねがいします」


そこで店員が注文を聞きにきた。


「わたし達は霜降り和牛と野菜セットで。佐伯くんはどうする?」

「じゃあ、僕も同じで」


1万2千円の和牛鉄板焼き、どんな味なんだろうな……


睦美の姉は改めて博和に尋ねた。


「……佐伯さんは大変優秀な方だそうですね?」

「今のところ佐伯君に学内テストで勝ったことはないわ。いっつも2番手ばっかり」


睦美はそういったものの、偶然博和を姉に紹介できたことでやや興奮気味だ。


「お姉ちゃんは現役で東大理3に入学していま2年なの。だからさすがの佐伯君も敵わないよ」


なんと東大の理3!2年生ということは、睦美とは6歳差なのか……


「佐伯さんはどの分野に一番自信があるんです?」

「理数系、でしょうか。数学と物理です。まあ父が理学部物理学科の教授なので、わからないことは何でも聞けますので」

「お父様の御専攻は?」

「非平衡系の統計力学というもので、理論系です」

「スピン緩和とか、ブラウン運動みたいな系を取り扱うのかな?」


これには博和も驚いた。睦美の姉はどんな分野でも熟知しているのだろうか?


「すみません、僕は全く理解できないんです」


博和は苦笑した。睦美の姉はそんな博和を親しみを込めて見つめていた。


「妹ったら、家に帰るとあなたの話ばかりするのよ。しかも細かいことばっかり、この間も……」

「お姉ちゃんそれはちょっとやめて。恥ずかしいからさぁ」


睦美は学内と外ではまったく表情も振る舞いも違う。なぜだろう? あの学内の素っ気ない態度は一体……


 やがて油が飛び散る鉄板が分厚い木製のトレイに食事が運ばれてきた。1時間はかけてゆっくり食べ終わると、「美味しかった?」とか「すごい肉だったね、バターみたい」や「僕にはそうそう来れる店じゃあないよ」といった軽い雑談を交わして、さあ支払いを済ませようとしてカウンターに3人が連れ添って向かうと、


「今日はわたしが全額払うわ。勿論佐伯さんの分もね、そのほうが睦美も喜ぶだろうし」

「いえ、いくらなんでもそこまでして頂く訳には……」

「お願い、気にしないで」


慣れた手つきで、クレジットカードを店員に渡すと、睦美の姉はあっというまに支払いを済ませた。そしてコートを羽織ると、


「ついでに送ってあげる。乗って?」


と、指差す方向にある三枝姉妹の車はポルシェ911だった。そりゃ一千万円以上の車をぽん、と買う財力があるなら、他人の食事代の支払いなんて瑣末なことだし、ああいう堂々とした態度も自然と身につくのだろう。博和は睦美と後部シートに並んで座り、やや緊張しつつも贅沢な帰路を楽しんだ。



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