第四話~中等部1年
結局その年――中等部の一年は、すべての定期考査で佐伯博和は首位をキープし続けた。
そしてその度に、三枝睦美と短い会話を楽しんだ。
それだけが睦美との接点であったが、それが目的で博和が必死になって考査に臨んだわけではない。
彼は自分の時間を大切にする少年だったし、同級生の噂を必死になって収集する通俗根性の持ち主でもなかった。
だから、未だに博和は睦美が何処のクラスかも知らない。家族のことも、親の職業なんてもちろん知らない。
翌年の2月に大雪が降った。横須賀線は運行を停止しなかったものの大幅に遅延し、スマホで交通情報を確認した生徒達は皆、放課後も暖房の利いた教室に残っていた。
しかしこのまま待っていては余計事態は悪くなる。博和は白いダウンジャケットを着込み、決心して教室を後にした。
おどろいたことに校門では睦美がじっと身じろぎもせず、傘も差さずに立っていた。
ほとんど黒に近い濃青色のコートに、いかにも暖かそうな白いファーのマフラーを巻いている。
彼女は傘は差さず、時折肩に積もる雪を振り払うだけだった。
博和はやや離れてその隣に立った。睦美はちら、と博和を見て、軽く微笑んだ。
「タクシー待ってるの」
博和はそれに応じて軽く会釈した。
「こんな天気で来るのかな?」
「大丈夫。電話したらあと10分くらいだって」
コートのポケットに手をいれて道路を眺めていた睦美だったが、はっと我にかえったように、博和に一歩歩み寄り、
「ねえ、タクシー一緒に乗って帰る? 家、同じ鎌倉ハイランドでしょ?」
「藤沢からハイランドまでだと幾ら位?」
「この天気じゃあ5000円くらいはかかるかなぁ……」
なんと5000円!博和の一か月分のお小遣いである。
「――僕、2500円も持っていないですよ……」
睦美の切れ長の瞳が弓のように丸くなり、さらに微笑むと、
「いいっていいって。別に方角は同じなんだから。」
そのとき、不意に博和のポケットでスマホの着信音が鳴った。ちなみに着信音は誰彼の区別無く黒電話である。
『もしもし?』
『あっ博和あたし。もう今日は部活もないしあたし帰るね。一緒に帰ろ?今どこ?』
美幸からだった。
『今校門だけど……』
『じゃあ今すぐ行く。待ってて』
睦美は軽く眉をひそめて、
「誰?誰か待ってるの?」
博和はちょっとまずいと思い、うつむいてすぐに答えるのを逡巡した。だが結局正直に答えた。
「武藤さん。一緒に帰ろうって」
「武藤?誰?」
「ずっと前に一度あったことあるでしょう?武藤美幸、幼馴染なんです。うちの父親と美幸の父親は大学の同級生で、いまでも家族ぐるみの付き合いが……」
睦美の表情が強張ってゆくのを見ると、博和は黙ってしまった。睦美も黙って道路に目をやった。しばらくして、ふっと白い息を吐くと、
「いいわ。彼女も一緒に帰りましょ」
「ありがとう。僕からも言わせてもらうよ」
睦美は軽く肩をすくめて、
「いいのよ。みんな御近所なんだし」
タクシーがやってくるのと、美幸が駆けつけてくるのはほぼ同時だった。
「えっと……どういう状況?」
睦美は幾分和らいだ表情で、
「佐伯君、武藤さん、乗って。みんな同じハイランドだから相乗りよ」
タクシーのドアが開いて、睦美は助手席、博和と美幸は後部座席に座った。
「鎌倉の浄明寺ハイランドまでお願いします」
睦美がそう言うと、タクシーは雪道を走り出した。
県道32号線に沿ってタクシーは走り、30分近くかけて三枝邸にようやく到着した。
3人は降りて、睦美は5060円払った。
「どうもありがとうございました!」
博和と美幸は揃って睦美に頭を下げた。
「……お金のことは気にしないで。じゃあここからは気をつけて」
博和と美幸は手を振って、雪がもう20cm近く積もった道を歩き出した。
「三枝さんて優しいんだね」
美幸はつぶやいた。
「金持ちならではの余裕ってやつかな」
博和はザクッ、ザクッ、と歩きながら答えた。
「金持ちだけじゃないよ。あの人、すごく綺麗だし、勉強もできるし、運動神経もかなりいいみたいだよ。英才教育とか受けてんのかな?」
「かもね。僕なんかとは住む世界が違うんだ」
その世界はきっと煌びやかな人や物で溢れているんだ……そして僕もいつかはそんな世界で充実した生活を送りたい……
「あたしたちをどう思ってるのかな?」
美幸は足跡がついていない雪道を選んで歩く。
「良くも悪くも、どうってことないだろ」
「そうかなあ?三枝さんていっつも超然としてるイメージなんだよなぁ」
そういったやり取りを交わす間に、美幸の家に着いた。この家は良く知っている。
「じゃあね。また明日ね」
博和の家はすぐちかくだ。滑らぬよう、足元を見ながら1m単位で熟知しているいつもの帰り道を急いだ。雪はもう、湿り気を帯びてぼたぼたと落ちてくる。
「ふう。やっと帰ることができた」
玄関先で博和はつぶやいた。それはただの独り言だったはずだった。
「おかえりなさい」
博和は滅多なことでは動じない。どんな非難や嫌がらせの言動も、今の彼を動揺させることは出来ないだろう。だが今度こそ、心臓が口から飛び出すような衝撃を受けた。
「へーえ、この家に佐伯君が住んでるんだ。覚えよう」
門の外には睦美が居た。彼女は幾分にやついたような表情で、博和を見つめていた。
「こっそり尾行したんだよ。気がつかなかったでしょ?」
博和は門の内側で言葉もなく突っ立っていた。
「案外うちから近いわね……」
「そ、そうだね。うん、実は近いんだよ」
取り乱す博和を、睦美はじつに面白そうに観察していた。
「ね、前にもあったよね、こういうの。門越しに話したこと」
――サーチライト、大邸宅、美少女……そして瀟洒なミトンの手袋。
「今おうちには誰かいるの?」
「両親がいるよ」
「そぅ。いつかお宅にお邪魔してご挨拶させていただこうかな。じゃね、バイバイ」
睦美は背中越しに手をひらひらさせながら、去っていった。
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