第一話~小学生
鎌倉市といっても、いまや風情のある古都という印象は無い。
昔ながらの商店街は軒並みシャッター通りで、観光シーズンだけやって来る若者向けのキャラクターショップや、鰻、白魚、畳鰯など名物の和食店が立ち並ぶのみだった。
夏はたしかに素晴らしい-材木座海岸や由比ヶ浜沿いのコンビニには、海からそのまま直行してきた水着姿の若い女性たちが店内をたむろしている。
海には真っ黒に日焼けしてウィンドサーフィンをする男女の姿や、砂浜に突き刺したビーチパラソルの陰でまどろむカップル、大音量でトランスミュージックを流す車。
こうした真夏の喧騒の後には、海岸はごみだらけ、しかも男性向け避妊具が少なからず散乱している……佐伯博和は小学生にしてそのいびつなゴム袋の用途を知っていたが、だからといって彼が他の誰よりもその手の分野に興味深々だったというわけではない。幼くして彼は醒めた知識と感性の持ち主であった。
しかしそうした感覚の持ち主さえも、夏が終わり、あれほど五月蝿かったセミの鳴き声もかすかに聞こえる程度になると、博和は沈鬱な気分に落ち込む。
それは夏から秋への変わり目に響くひぐらしの鳴き声のためではない。
佐伯博和は今年小学6年生、来年の2月は中学受験を控えていたためであった。
10月になり、ひんやりと乾いて薄暗い日々が続く。そしてまもなく、灰色の雲が空一面を覆う冬がやって来る。そうなれば受験の追い込みも厳しさを増していった。
幸いなことに彼は成績優秀で、中学受験塾の特進クラスに編入されていた。
彼は他の大多数の少年少女達と違い、わが子の教育に血道をあげる両親に追い立てられるように中学受験の道を選んだわけではない。今、中高一貫校を受験しておけば、高校入試をする必要は無く、ゆったりと大学受験に臨むことができる。そして今のところ彼が最も嫌っている、あの10代初期の思春期の無思慮な暴力面から逃げることができるから、という彼自身の強い意思だった。
そして12月のある晩。昨日から朝方に降っていた雪は止んだが、地面は所々凍結していた。そのなかを博和少年は夜10時の真っ暗な住宅街を、マウンテンバイクに乗って帰路に着いていた。
突然、何か岩のようなもの……それは建築中の住宅から剥がれ落ちた壁石か、それとも凍り付いて硬くなった雪の塊か……にマウンテンバイクの前輪が乗り上げ、バランスを崩した博和は両手を地面について派手にすっ転んだ。
「痛ってぇ……」
手足を確かめる。幸い、特に怪我はしていないようだ。ただ、地面を擦ってしまったせいか、右の手袋の掌部分が大きくやぶれていた。
「ハロー?あなた、どうしたの?」
どこかからか、女の子の声が聞こえた。そこではじめて、博和は自分が堂々たる大邸宅の豪奢な門前にぽつんと立っていることに気がついた。
広大な庭の四隅には、まるで戦争中のようなサーチライトが設置されていて、コンクリートの白い外壁を照らし出していた。博和はそのいかにも堅牢な感じに驚かされた。
「ひょっとしてあたしの雪だるまで転んじゃった?だったらごめんなさい」
門の向こう側に、ひょい、と女の子が顔を出した。歳の頃は博和と同じくらいで、真っ赤なオーバーコートを着込んでいる。両手にはいかにも暖かそうな、白いアンゴラのミトンをはめていた。
「……そうみたいだね。でも自転車も僕も怪我はしていないよ」
少女はほっとしたようだった。そこでやっと、博和は少女の容姿をじっくりと観察することができた。黒髪は肩までの長さで、瓜実型の顔は真っ白い。年齢にしては鼻筋がくっきり通って、小さな蕾のような唇とくっきりとした二重の切れ長の瞳は十分美少女と言えるが、どこか大人びて小憎らしい感じがしないとも言えない。
「あら?あなた手袋がぼろぼろになっているじゃない」
彼女が指差したのは、博和の右手だった。なんとなくきまりが悪くなって、彼はパーカーの深いポケットに右手をつっこんだ。
「お詫びにあたしのと交換してあげる」
博和が何か言うまでも無く、少女はミトンを脱いだ。そして門越しにほとんど強引ともいえる仕草で、それを博和に押し付けた。
「あ……ありがとう」
彼が受け取ると、少女はきゅッ、と口元をさげて微笑した。
「あなたのも頂戴?」
少女は小首を傾げて博和を見つめる。
「え……だってこんなのボロボロだぜ?いいの?」
再び、あの独特の微笑で少女は、
「今夜の記念、ってことで、ね?」
博和はきまりわるそうに茶色の薄手の手袋を手渡した。少女は再びあの独特の微笑を浮かべた。
「バイバイ。じゃね」
少女は再び門の奥へと消えた。
博和はしばらくの間、この夜のことを鮮明に覚えて、繰り返し頭の中で反芻していた。サーチライト、大邸宅、美少女……そして瀟洒なミトンの手袋が、この夢の唯一の証人だった。
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