エピローグその1~あなたのいない世界
三枝睦美が東京メトロ千代田線の霞ヶ関駅に降りたのは、もう冬といってよい晩秋の夕方だった。
必死に手を振ってタクシーを捉まえると、「済生会中央病院まで」と、聞こえる程度の声でつぶやいた。
「お客さん、お見舞いですか?」
初老の運転手は、バックミラーからちらちらと睦美を観察していた。
「ええ」
睦美は短く答えた。その静かな双眸に、走り去るビルの窓が明滅する。
「お客さんのようなお綺麗な方が、お見舞いに来てくださるなんて、幸せな方ですね」
バックミラーに白い瓜実貌が映っている。途方も無い位の美女だった、お世辞ではなく、運転手は心の底からそう思った。
歳のころは30前後、28~32位だろうか。その美貌は、10代や20代前半の美少女がそのあどけない色気で敵うレベルを遥かに超えている。
薄く濡れたようにしっとりとした真っ白な肌に、真っ赤な唇。
鼻筋はすうっと通って美しく、小皺などは一見して見当たらない。
そしてなにより印象的なのはその眼差しだった。
切れ長の瞳に、深い憂いを帯びたその表情。体躯にはダブルのトレンチコートを纏っているが、そのほっそりと伸びた均整の取れた肢体は十分にみてとれた。
「お客さん、着きましたよ」
「ありがとうございます。お釣りはいりませんから」
一万円札を運転手に渡すと、睦美は飛び出すようにタクシーから降りた。
病院の窓口で、睦美は患者との続柄を『親族』と書いた。
最近はプライバシー保護のため何かと面談受付はやかましい。
指定された病室に向かって、ハイヒールの靴音もカツカツと甲高く足早で歩く。
内心では全力疾走したいが、看護師や車椅子が縦横する病院の廊下でそれは危険だ。
『1131号室』。
目的の部屋の前に辿り着くと、睦美は一呼吸整えて、ゆっくりと扉を開いた。
部屋の中にはベッドがひとつしかなかった。巡回中なのか、看護師や医師の姿は見当たらない。
無数のチューブが、天井の機器から、床に置かれたポンプから、ベッドの上に横たわる男性の胸部と背面に繋がっていた。
なるべく静かに、彼女はベッドに近寄って行った。
鼻腔にカテーテルを差し込まれたその青年は、睦美がかつて良く知っていた貌だ。
だが無精ヒゲと油染みて乱れた髪が、その繊細なハンサムぶりを台無しにしていた。
双眸は軽く閉じられ、胸部が小さく上下するにつれ、何処かのポンプがブロロロ…と真空引きする。
睦美がそっと貌を近づけると、薄く青年の眼が開いた。
「三枝さん?……」ささやくような声で、
「今頃になって、負け犬の馬鹿面を見に来たのか」
ふっ、ふっ、と青年が自嘲の言葉に軽く笑うと、激しく咳き込んだ。
背面に繋がっているチューブに血が流れる。
「クソッ、い、痛い…意識して呼吸しないと駄目なんだ。眠ることもできない」
睦美はそっと手を差し出して、彼の額に掌を置いた。脂汗と高熱。
「誰に聞いた?この場所を?」
睦美は少し潤んだ眼で、
「野中君から、あなたが仕事中に急に倒れたって……。で、済生会の病院に搬送されたって……」
「余計な事言う奴だ。君はもう、僕なんかとは別世界の人なんだ。それを認めなかった僕を笑いたきゃ笑えよ」
睦美の滑らかな頬をひとしずくの涙がすうっと流れた。そしてその場の雰囲気を取り繕うように、
「何か欲しいものは無い?フルーツでもドリンクでも買ってくるわよ?」
「…何も要らない」
そう彼は言ったが、睦美は病室から薄暗くなった病院の廊下に出て、自販機を探した。そしてスポーツ飲料を買うと、病室に戻った。
「高熱のときは水分補給は大事よ。両手が塞がっているから飲ませてあげる」
そう言うと睦美はペットボトル入りのドリンクを口に含んだ。そして怪訝な表情の青年に向かって、膝をついて優しく唇を重ね、口移しで飲ませた。青年は一瞬、眼を見開いたが、すぐに眼を閉じて素直に受け入れた。
ようやく飲み干すと、睦美は少し顔を離して青白い病身の青年を見つめた。その切れ長の眼には不安と悲しみが映っていたが、口にはかろうじてぎこちない微笑みを浮かべている。数瞬見つめ合ったその後、彼女はすっと身を起こすと、
「しっかりね、佐伯君。またね」
と言い残して病室を去った。
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