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瑠璃草子  作者: 九藤 朋
9/13

其ノ玖



挿絵(By みてみん)



 華月は紅筆で紅を引く。

 紅花から作られた、正真正銘の紅だ。「紅一(べにいち)(もんめ)金一(きんいち)(もんめ)」と言われる程に、その価値は高い。蘇芳や茜で代用するのが専らであるのを、華月は紅に拘り、また、拘ることが許されるだけの立場にあった。丸い鏡に映る顔を確かめる。白粉要らずの円月屋の月、と称される華月の肌は、今日も抜けるような白さだ。淡い緑の目は翡翠と謳われる。華月は客に耳障りの良い言葉を並べる。それもまた、生業だからだ。だからこそ、紅くらいは本物を使いたい。公儀隠密として生きる自分の、全てを偽りで固めたくはない。


 それに今夜は、津蔵坂が朋輩を連れてくる。

 土佐の脱藩浪士の情報を、得ていて損はないと近づいたが、何の因果か恋に落ちた。華月は苦笑する。どんな手管を用いられても靡かず、どんな手管を用いても相手を靡かせる己が、容易く恋心を抱くとは、どんな皮肉だろうか。



 べん、べべん、と瑠璃が三味線を鳴らす様を、檸檬絵郎が描く。樹人は瑠璃の横で仕込み杖を構えている。檸檬絵郎が求めた構図だ。檸檬絵郎は耳で三味線の音色を、目で二人の在り様を快いものとして楽しんでいた。哀切な三味線の音は、檸檬絵郎を少しだけ哀しくさせた。禁断の恋に落ちた二人の行く末を、檸檬絵郎は密かに気に掛けていた。思い留まれと言ったところで、留まれるものでないのが恋だ。何を言っても、本人たちですらどうしようもないものを。


「今夜は土佐のお客さんが来はるそうやな」


 べ、べん、と音が鳴る。客の情報を迂闊に洩らさないのは陰間茶屋においても鉄則だ。ゆえに瑠璃も樹人も、そして言葉を発した檸檬絵郎自身も、独り言としてそれを流した。


「土佐の(やま)内容堂(うちようどう)公は中々の食わせ者や。これからの政局の、手綱を執るかもしれへんな」


 瑠璃は天下国家のことはよく解らない。ただ、親しい華月やあゆ、七瀬が深く政に関与していることは知っている。幕府が今、危うい立場にあることも。華月たちに累が及ぶようなことにはならないで欲しい。そう祈るしかない。仕込み杖を構えた樹人は、檸檬絵郎の言を吟味する目で、沈黙していた。幕府は遠からず瓦解するかもしれない。そんな、途方もないことを樹人は考えている。根腐れして、ついには倒れる、と。そのこと自体にさして感慨はない。瑠璃との将来だけが案じられた。



 花街の夜が訪れる。


「おいでやす」

「おう、店主。今日はちっくとばかし新しい奴も連れてきたきに」


 円月屋の暖簾を潜った津蔵坂は満面の笑顔で、清潔な身なりの男を円月屋の主人に紹介した。


坂崎鞘斗(さかざきさやと)ゆう。土佐の上士やが脱藩したちや」


挿絵(By みてみん)


 眼鏡を掛けた坂崎は、右目が黄色のような緑のような、不思議な色合いだった。

 店主に軽く会釈する。もう一人は津蔵坂がたまに連れてくる男だ。線の細い大人しそうな男で、上田辰之(うえだたつの)(しん)と言って華月とは恋仲にある。店でも上等の座敷に通された津蔵坂たちは、あゆと華月の饗応を受けた。瑠璃もまた、三味線を弾くだけの為に座敷に出た。

 いつもは臈たけた美女である華月が、上田の前では初々しい少女のように振る舞う。控えめな笑みが、客への作り笑いではない心底から来るものだと一目瞭然だ。瑠璃もあゆも、そんな華月の姿を微笑ましく思っていた。津蔵坂も一見は機嫌が良い。唯一人、坂崎だけが笑みを浮かべず、華月でもあゆでもなく、三味線を弾く瑠璃を見ていた。


武市(たけち)先生が死んだがじゃ」


 津蔵坂の誰にともなしの言葉に、場は一瞬、静まり返った。

 武市半(たけちはん)(ぺい)()

 土佐勤皇党の盟主であったが山内容堂によって投獄され、数日前、切腹して果てたと言う。政局の変動が、一時は寵児と持ち上げられた武市を死に至らしめた。


 華月もあゆも、既知の事実だった。そして津蔵坂もそれを知るから、酒の席で痛恨事として語ったのだ。上田も坂崎も神妙な顔をしている。


「坂本さんも、悲しんでおられるろう」


 上田がぽつりと言う。


「じゃからな、らぶいずぴーすぜよ」

「お主は昔から変わらぬな」


 坂崎が苦笑して、盃を干した。江戸育ちなのか、坂崎の物言いには訛りがない。今夜の集いは、武市半平太を偲ぶものであるのだと、華月もあゆも得心した。瑠璃も雰囲気でそれを察し、余計なことは喋らず、俯いて三味線を弾いた。坂崎の視線が絡みつくようであるのも、気のせいだろうと思って遣り過ごした。



 月下。

 屋根瓦の上で剣戟の音が鳴る。


 小太刀を構えたあゆと、『魔弾』が戦いを始めてもう四半刻(しはんとき)(三十分)。

 『魔弾』のコルトM1851の弾は既に尽きている。尽きるまでにしのいだあゆの体技は驚嘆すべきものだった。あゆの小太刀捌きもまた、群を抜いて優れている。『魔弾』はここまで己と互角に戦い得る女の存在に脅威を感じていた。世は広い。遭遇は偶然。屋根の上を走る人間など、堅気ではない。顔を認めたあと、すぐに戦闘が始まった。影に生き、影に死ぬ者同士の死闘である。あゆは小太刀を舞うように操った。間合いの長さにおける『魔弾』の優越は霧散している。小太刀の基本は突進し、刀を受け弾き、そこに生じた虚に急所を狙うものである。あゆの立ち回りもその基本に忠実だった。金属音が、時に火花を散らしながら響く。とん、とあゆの後ろに舞い降りたのは華月。対抗するように『魔弾』の後ろには『猫』が。双方、刀を手にしている。ここが引き際であると、あゆも『魔弾』も察した。視界から暗がりに消える『魔弾』たちの追尾を諦め、華月があゆに安否を問う。


「怪我はない?」

「はい。華月姐さん。おおきに」


 華月は本来なら今頃、上田と過ごしている筈である。あゆの不在を気に掛け、ここまで来てくれたのだ。同じ隠密同士、同じ店に住まう同士、情は肉親よりも濃い。あゆは山内容堂の思惑を探りに、土佐藩邸まで出向く積りだった。そこで『魔弾』と鉢合わせしたのだ。『魔弾』は長州。やはり土佐の動向が気になるのだろう。


「風が出てきたなあ」


 華月が空を仰ぐ。刀を携え、月の光を浴びて凛と立つ華月は、神々しささえ感じさせた。


「嫌な風や。たくさんの血ぃが、流れる前みたいや」


 華月の言葉に、あゆはきゅ、と唇を引き結ぶ。

 風が吹く。

 時代が動く。

 自分たちはさながら、竜巻の中の一枚の木の葉。

 足掻いても無力で。

 けれど力の限り生きるしかないのだ。



 その頃沖田は、寝苦しく起き上がり、咳き込んでいた。軽い咳だが止まらない。風が障子戸を鳴らす夜、病魔に侵された身を持て余し、孤独に戦っていた。


「沖田さん?」


 障子の向こうから声が掛けられた時、沖田は救われた思いと絶望を同時に味わった。声は七瀬のものだった。


「七瀬さん、なぜ」

「水を飲もうと思い、通り掛かったら、咳の音が」

「開けてはいけませんよ」

「なぜ」


 今度は七瀬が問う。


「貴方にうつると困ります」

「私は構いません」

「莫迦なことを」


 構わず、障子戸を開けた七瀬に、沖田は間の悪さを呪った。

 七瀬は単衣の夜着姿だった。

 抱き寄せたくなる衝動と、沖田は戦う。余りに危うい夜だ。風が沖田を諌めるように荒ぶる。さらさらと七瀬の黒髪が流れる。

 歩み寄る七瀬に制止の声は届かない。


「戻りなさい、七瀬さん」

「嫌です」

「渚様、」

「嫌」


 ついに柔らかな肌が懐に飛び込んだ時、沖田の自制の歯止めが緩む。

 抱きすくめて唇を吸って。

 共に布団にもつれ込んだ。



挿絵(By みてみん)









一匁あたり3.75g。


今回も友情出演してくださった皆さまに御礼申し上げます。

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