其ノ漆
新撰組と長州の間には根深い溝がある。
去る元治元(1864)年七月十九日、政変により、かねてより会津に遺恨のあった長州藩が会津藩主であり京都守護職・松平容保らを除かんと市街戦を繰り広げた。京都の街を焼いたこの争乱は長州藩の敗北に終わり、真木和泉や久坂玄瑞ら音に聴こえた長州藩士が討死し、他の敗残兵たちも詳細な取り調べを受ける前に首を刎ねられ、血の臭い充満する有り様となった。永倉は今でも、辞世の句を吟ぜられたあと、断頭せられた幾つもの首を忘れていない。ほとんどの処刑に携わった新撰組は、結果として長州藩の恨みを買うことになったのである。
「綺麗な骨は稀だったぜ」
青眼に構えた永倉新八が物憂げに言う。
対する千尋もまた一刀流の基本である青眼の構え。永倉の言葉に、千尋は怪訝な顔になる。
「志士の骨は総じて美しかるべきと俺は思ってる。だから、そういう骨を見つけたら、拾うんだ」
言葉が終わるや否や、千尋に斬りかかる。裂帛の気合いの一撃。千尋は後退気味に受けて弾き返す。金属同士が歌う。永倉の使う神道無念流は「力の剣法」と言われる。ひたすらに力強い打突を繰り返すことで相手を圧倒する。千尋は避け、または擦り流すことで手一杯である。それでも新撰組の名にし負う二番隊隊長の猛攻をしのいでいるだけ、称賛されて然るべきだった。
千尋の遣う北辰一刀流は合理を極めたような剣である。そしてその合理の中には、他流に対した時の対処法も含まれている。神道無念流を相手取る時は胴を狙うことが肝要。
千尋は数歩分を一気に退き、瞬発して永倉の胴を狙う。永倉が微かに目を瞠り、千尋の刃を間一髪で避けると間合いを取る。成程、伊達に今の世を生き抜く長州ではないということか。永倉の口の端が上がる。強敵の出現は、永倉にとって僥倖である。
この男の骨はさぞ美しかろう――――。
千尋に足払いを掛ける。足払いは神道無念流の特徴の一つで、野戦めいているが実戦として有効である。千尋はぐらつく重心を何とか持ち堪えた。
すぐ横で永倉と千尋が立ち回りを演じている頃、斎藤と『魔弾』は睨み合っていた。斎藤は左手に刀を持ち、やや下げ気味に構えている。『魔弾』は上段に構える。攻守に融通の利く斎藤の構えに対し、『魔弾』は攻撃に特化した体勢。自信があるのだろう。斎藤は淡々とそう見て取る。無形の刃、どこまで受けられるものか。斎藤の双眸が酷薄な光を帯びた。
それはまるで舞のようだった。
斎藤がふわり、と動いたかと思うと、凄まじい突きが『魔弾』に繰り出されたのだ。魔弾の左頬に赤が散る。避けた、いや、本能が避けさせ、『魔弾』の命を救ったのだ。斎藤が笑った。嫣然と。強者と出逢い、喜ぶのは何も永倉だけではない。
「よく避けた」
「初太刀を外すことが肝要らしいな」
その点のみを挙げるなら、斎藤の剣は示現流のようだった。続く二の太刀、三の太刀も決して温くない。避けながら、或いは擦り流しながら、『魔弾』の背中は汗で濡れていた。腹拵えを済ませておいて良かったと思う。こんな猛獣のような男を相手取るには、力の消耗が著しい。千尋の様子を一瞬、窺い、指を口にくわえぴゅい、と吹く。広くない座敷に、踏み込む無数の足音。
永倉が舌打ちする。
「囲まれたな」
斎藤は平生と変わらぬ顔色でただ首肯する。浪士たちが永倉と斎藤に迫る内に、千尋と『魔弾』はまんまと逃げおおせた。骨が、と永倉が呟く。
「俺は今、機嫌が悪い。骨を晒したい奴ぁ掛かってこい」
不敵にそう告げた永倉と斎藤に、浪士たちが殺到した。
微睡から目覚めた瑠璃は、今は何刻だろうと考える。
日の傾き具合からして、九つ(正午)くらいだろうか。きちんと敷いた布団で寝なかったせいで、身体の節々が軽く強張っている。ひょこり、と障子を開けたのはあゆだった。
「目ぇ覚めたん?」
「はい」
「ほな、昼餉にしよ。うちも一緒でええ?」
「はい。もちろん」
あゆは太陽みたいににっこり笑い、しばらくすると膳を二つ持ってきた。二人で昼餉を食べていると、華月があゆと同じようにひょこりと顔を出し、瑠璃を見て笑った。華月の笑みはあゆとはまた異なる趣で、あゆが太陽なら華月は名前の通り、月のようである。
「仲ようして、ええことやね」
「華月姐さん。『魔弾』は?」
「潜伏先まで突き止めて、新撰組に知らせてきたわ。今頃、捕り物の最中やろ」
「そう……」
あゆが普段は見せない物思う顔つきで、箸を持つ手を見る。――――小太刀を使う手を。得物は間合いが長い物のほうが有利というのが定石だが、あゆは小太刀で大の男と渡り合える自負があった。
『魔弾』も『猫』も。
次はない。自分は幕府の為に尽くす隠密。大樹が根本から折れようと、最後まで働くのだ。
「あゆさん?」
瑠璃の声に我に帰る。華月はもう引っ込んでいる。
「ああ、堪忍。考え事」
「無理しないでね。……自分を大事にしてね」
瑠璃は何事かを察した声であゆに心細そうに言う。濃やかな情のある子だとあゆは思い、優しい気持ちが胸を満たした。これは「私」としてのあゆ。「公」のあゆとはまた別物。
白味噌の効いた味噌汁を啜り、あゆはそう己に言い聞かせた。
檸檬絵郎が円月屋を訪れたのは、その二日後のことだった。
昼過ぎ。太陽が猛威を振るう中、額の汗を手拭いで拭いながらやってきた。
檸檬絵郎はいつも大荷物だ。弟子の一人でも使えば良いのだろうが、円月屋には一人で行くことを信条としているようだった。
蝉の声がかますびしい中、いつもの南の座敷に瑠璃と樹人は向かった。
檸檬絵郎は瑠璃と樹人を、日本画の他、洋画の技法でも描いていた。今や国画一本では食べて行けないご時世である。洋学の最先端を学んだ絵郎は要領よく己の望むものを描きつつ、生計をも立てていた。この時代、嫁入り道具に春画も入れるのが常識だったが、檸檬絵郎の描く春画を持って嫁いだ娘は子宝に恵まれ、夫婦円満となる噂が広まり、そうした面でも人気絵師だった。
樹人は指示通り、中腰の姿勢で扇を広げ、それだけではないだろうなと思う。
「硫酸鉄にタンニンを加えたもんが西洋墨でしてなあ。お歯黒の鉄漿水も代用出来るんや」
一服淹れている時、檸檬絵郎がそんなことを話す。
やはり、と樹人は穏やかな風貌の絵師を見た。
「洋画の技法を使って、地図を作っていますね」
一瞬、座敷の中が沈黙に包まれた。密度の濃い沈黙だった。
檸檬絵郎がからからと笑う。
「そないな危ないこと、ようせんよって」
「貴方は尊王過激派と繋がっている。然るに六畳を専らとするあばら家に住み、薪を手ずから運び水を汲む岩倉公(岩倉具視)とも旧知の仲ではないですか。絵師であればこそ、また、洋画の技法を学んでいればこそ、そして武術にも通じているからこそ、そんな貴方に日本の警戒すべき藩の地図を描かせようとしても不思議ではない」
滔々と言い並べた樹人を、瑠璃は驚きの目で見て、檸檬絵郎は沈黙した。
「聡いんも考えもんやな」
やがて溜息混じりにそう呟く。華月とあゆが、廊下に待機していることを、檸檬絵郎もまた察しているのかもしれない。
「樹人はんの言わはる通りや。せやけど儂は、純粋に絵を描くんが好きなんや。国絵図を描くことは確かに頼まれたけど、それは二の次。今は瑠璃はんと樹人はんを描くんが一番、楽しい。……信じてその杖を離してもらえんやろか」
樹人は仕込み杖を隠し持ってきていた。檸檬絵郎にはお見通しだったらしい。
しばしの思案の末、樹人は後ろ手に持っていた仕込み杖から手を離した。
張り詰めていた空気が弛緩する。
瑠璃がほっと息を吐き、廊下に座していた華月とあゆも、それぞれの得物を持つ手の力を緩めた。
引き続き、友情出演いただいている皆さまに御礼申し上げます。