其ノ陸
(左から永倉新八、山崎烝、斎藤一)
樹人が単衣を着ていると、カタン、と襖が鳴った。
「瑠璃」
「小佐野様は」
「あの生臭坊主? 帰ったよ。線香気前よく使える程、金はないらしい」
まだ夜明け前である。瑠璃は樹人が客の相手をしている間、一睡もせず、唇を噛み締め堪えていた。同じく堪えているであろう樹人を想い。瑠璃色の小鳥が鳴く。
「こいつの餌、取ってきてやらないとな」
「樹人」
「どうせ長く生きないだろうけど」
「樹人」
「また寝なかったんだね、瑠璃」
「ごめんなさい」
瑠璃の瞳に涙の膜が張る。樹人はかぶりを振った。瑠璃が何に対して謝罪しているのか、樹人は解っている。金色の線で構成された鳥籠を見る。
「瑠璃を解き放ってやりたいよ」
「私は樹人に自由になって欲しい」
震える声音で言う瑠璃に、樹人は目を閉じて、開く。
「瑠璃が双子の姉じゃなかったら良かった」
「……なかったらどうするの」
「どうするか、教えて欲しいの?」
行燈の火が消えた濃い闇の中、樹人の目が、光ったように瑠璃には見えた。
気付けば赤い褥に組み伏せられていた。
瑠璃からは、真上にある樹人の表情は定かに見えない。どこか怒っているような、切ないような。
このまま奪われたい。
唐突な欲求が瑠璃の内に生じた。
がむしゃらに口づけされて、必死に応じる。樹人の舌は荒ぶる龍神を思わせた。
長い口づけだった。
樹人の唇が離れると、二人共、荒い息をしていた。唾液が垂れて枕を濡らしている。
「……ね? 近づいちゃ駄目だよ」
樹人の声は優しく悲しかった。
瑠璃は小鳥が羨ましいと思った。樹人に気に掛けられ、世話をしてもらえる。誰憚ることなく共にいられる。瑠璃色の鳥。
「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」
瑠璃は知らないが、樹人が詠んだのは今、流行りの都都逸だ。解釈は様々だが、情人との朝の別れの名残を惜しむ、という捉え方が多い。
樹人には叶わぬ夢だった。
儚い夢だった。
「休養が何より大事やと申し上げてる筈ですが」
沖田を診た山崎烝は首を振りながら嘆息した。山崎は新撰組の監察方であるのだが、生家が薬種問屋だった為か医家の松本良順に見込まれ、医学を学んでいた。几帳面な性分は、監察にも医家にも向いているかもしれない。寡黙で無表情が多い怜悧な風貌である。
沖田の、どこか春風を思わせる面立ちとは逆であった。
沖田は叱られた子供のように首を竦めた。幾分、芝居がかったその仕草は、山崎に対する気安さから来ている。
「お届け物があったので」
「貴方が行くことはないですやろ」
「そうですが」
「――――渚様ですか」
山崎もまた、七瀬を会津侯縁の姫と知っている。
「余り過保護なんもどないかと。そもそも」
尚も言い立てようとした山崎の声を遮り襖が開く。
「沖田さん、いるかい」
「永倉さん」
水を差された山崎は眉間に皺を刻み、永倉をじろりと睨んだ。永倉はどこ吹く風、といった様子で沖田に続ける。
「『魔弾』とやり合ったそうだな。斎藤が羨ましがってたぞ」
「そんな良いもんじゃありませんよ。斎藤さんは、強い相手なら見境ないんだから」
「あっはっは。違いねえ。あんたも早く病気治して、あいつの相手してやれよ」
「永倉さんがすれば良いでしょう。腕だって十分でしょうに」
ふ、とそこで永倉の呼気が静まる。
「俺は斎藤とは本気でやりたくねえ。やるんなら、命懸ける時さな」
「物騒な話はそのくらいにして、沖田さんははよう床に行ってください。永倉さんも、沖田さんを唆すようなこと、言わんといてください」
「斎藤が言ってるんだよう」
唇を尖らせた永倉の子供じみた振る舞いからは、彼が新選組で沖田、斎藤と並ぶ遣い手だということは推し量りにくい。
沖田に限らず、新撰組には傷病者が多かった。西本願寺の北集会所を屯所としているのだが、池田屋事変以来、とみに増した人員を収容するには手狭で、土方歳三が西本願寺に別所を借り受けたいと談判している。狭隘な居住区域では病も蔓延しやすく傷の治りも遅くなる。山崎は沖田の病状の為にも、土方の談判が早く通るよう願っていた。
華月の追跡を振り切った『魔弾』と『猫』は、長州に同情的な商人の店に潜伏していた。場所は下京。二階の座敷を開けるとそこには先客が煙管を吹かしていた。『魔弾』と『猫』を見るとにこりと微笑む。人好きのする笑顔の、まだ若い武士だった。脱藩して追われる身にしては清潔感がある。洋風の総髪がしっくり馴染んでいる。
「……千尋か」
「ご苦労なさったようですね。『魔弾』さん。『猫』さんも」
「あんたにゃ全てお見通しかい。いけ好かないねえ」
そう言って『猫』はふいと姿を消した。神出鬼没が身上である。固まって動くのは危険でもあり、別の場所に身を隠すのだろう。千尋もまた、尊皇攘夷の志士の一人だった。出自は長州だが語る言葉に訛りはない。父が江戸藩邸に勤めていた為だ。そのあたり、『魔弾』と通じるものがある。姓名は空乃千尋だが、苗字を呼ぶ人間はいない。北辰一刀流を極めた千尋は、瞬く間に敵を屠る。命を、空に帰してしまう。だから空乃と呼ぶと畢竟、死が近づく気がして、誰もが千尋と名で呼ぶのだ。
少しすると、店の小僧がしゃも鍋を運んできた。千尋の手回しだろう。気が利くものだ。敵からも味方からも恐れられる千尋を、『魔弾』は高く評価していた。機転が利き、腕が立つ。志は強固だ。これ以上、志士に望むものがあるだろうか。
しゃも鍋の湯気が部屋に昇り、空腹だった『魔弾』の咽喉がごくりと鳴る。
「食べてから少し休んでください。武士にも休息が必要です」
『魔弾』は千尋の言葉に甘んじることにした。しゃも鍋は出汁がよく効いてにんにくの風味が鳥の臭みを消し、食欲をそそる逸品だった。千尋と共に鍋を突きながら、ようやく人心地ついた頃。千尋がぴたりと箸を止めた。
「どうやら休息の暇はないようですね」
『魔弾』の耳も捉えていた。忍ぶ、足音。華月を振り切ったと思ったのは早計だったらしい。酒が入っていなくて、まだ幸いだった。
「御用改めだ。美味そうなもん、喰ってんじゃねえか」
永倉は襖を開け放ちざま、嬉々として言った。
隣に立つ斎藤は平生の面立ちで、ただ黙したまま瞬息で剣を抜く。沖田と並び新撰組の双璧と称せられることのある斎藤は、春風を思わせる沖田の風貌とは対極的に、色のない、冬枯れのような風貌だった。整ってはいるのだが、華やぎが足りず和みよりは戦慄を呼ぶ。山崎よりもなお冷たい。異国の血が混じっている訳でもないのに、目はうっすら青味を帯びている。
よりによって新撰組の選り抜きの隊士。二番隊と三番隊の隊長が揃って自ら出向いたという事実は、とりもなおさず新撰組が『魔弾』をどれだけ警戒しているかの表れだった。千尋が鍋を永倉たちに向けて引っ繰り返す。激しい音と湯気が上がる中、戦闘が始まった。
永倉新八:橋本洋一さん
山崎烝:恐怖院怨念さん
斎藤一:音叉さん
空乃千尋:空乃千尋さん
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