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瑠璃草子  作者: 九藤 朋
4/13

其ノ肆



挿絵(By みてみん)




 ざわざわと温い風が吹く。

 頭巾を被った『猫』の髪は風を感じることもなく、『猫』もまた、微動だにしない。

 三条河原は処刑場所としても有名だ。昨今では落書などの高札が立つことも多い。幕府を痛烈に風刺する狂歌は、新撰組の厳しく取り締まるところだ。

 何のことはない、と『猫』は思う。

 黒い単衣に裾を絞った袴を穿いて、両手を広げる。

 風の恩寵を受けようとするかのように。

 血風の。


「妻子をもすつるためしは武士の ならいと聞けど袖はぬれけり」


 さる土佐藩士が脱藩した時、その養父が嘆いて詠んだ歌である。その本人もまた、一念発起して土佐勤皇党に加わった。


「儚いねえ、世の中は」


挿絵(By みてみん)


 ざわざわと吹く風の音に、『猫』の呟きは紛れて消えた。

 蒼穹に浮かぶ白雲は緩やかに動き、忙しない俗世を嗤うようだった。



 円月屋に帰った瑠璃と樹人を迎えた店主は、早く南の座敷に行くようにと二人に命じた。多少、慌てた感がある。この頃にはもう津蔵坂は店を辞去していた。南の座敷は遊興の他、特別な用事のある客を接待する為の部屋である。絵師の檸檬絵郎(れもんえろう)様がお越しだ、と店主から聴いた二人は、店主と異なり特に構える様子もなく、座敷に入った。南向きなだけあり、陽光が障子を通しても眩しく射し込む座敷に、画材の一式が並べられ、檸檬絵郎がたすき掛けをして、瑠璃と樹人を待ち兼ねた様子だった。


挿絵(By みてみん)


 温和な笑みの絵師が、さる高貴な公家筋の人間であるというのは、円月屋でも知られた有名な噂だ。それでなくとも檸檬絵郎の描いた絵の評判は高く、また、高値で売れる。そうした絵師に贔屓にされる陰間と娘がいるということは、円月屋にとって一つの売りだった。

 欧州の果実であるらしい檸檬なる物を名とした絵師は、完璧な美貌を誇る華月や、際立って愛らしいあゆではなく、どこか陰のある、けれど清かな瑠璃と樹人を描きたいと望んだ。初めは瑠璃だけを所望したのだが、警戒して割って入った樹人にも興味を示し、どうせなら二人共に描きたいと求めたのである。檸檬絵郎は美人画を多く描くが、風景画や花鳥図も嗜み、格式の高い絵師として有名である。今は専ら、瑠璃と樹人の二人に興味を抱いていた。

 陶器の小皿の上に、色鮮やかな岩絵具が載せられている。和紙や絵絹の他、堅そうな紙もある。つんとする臭いはテレビン油と言う油の臭いだそうで、檸檬絵郎の使う油絵の技法に必要なのだそうだ。


「可愛い簪、つけてはるなあ、瑠璃はん」


 檸檬絵郎がにこにこと笑いながら目敏く指摘する。樹人が買ってやった物であることなどお見通しなのだろう。瑠璃は少しばかり頬を紅潮させて、ただ礼をした。


「ほな、いつも通りの形で、座ってもらいましょか」




 檸檬絵郎は一度、集中すると時を忘れる。

 筆を置いたのは、もうやっと日も暮れる頃だった。あゆが瑠璃を呼びに来て、瑠璃は座敷を出た。


「どうしたんです?」

「七瀬様が来てはるわ」

「え?」

「瑠璃ちゃんに逢いとうなったんやて」


 あゆは上目使いに、ややからかう色を含め瑠璃を覗き込んだが、瑠璃は、七瀬の月のものが急に訪れたのだと察した。咄嗟に円月屋を頼るのは、これまでにもあったことだ。丁度、廊下の向かいから歩いてくる七瀬が見える。白い頬は、蒼褪めて見える。だいぶ辛そうだ。




「珊瑚は高うついたやろ」


 瑠璃が座敷を出て、絵具などを仕舞いながら檸檬絵郎がゆったりした口調で言う。全てを見抜いているような物言いに、樹人は居心地の悪さを感じた。


「そのくらいの蓄えはありましたから」

「姉の為に身い売って。出来過ぎな弟やな」

「…………」

「樹人はん。儂は望んで好きに生きてるけど、あんたかて縛られることはないんやで」

「陰間茶屋に売られて?」


 皮肉な口調で樹人は返した。

 哀れむ眼差しで檸檬絵郎が見る。


「せやから、瑠璃はんまで背負い込むんはやめなはれ」

「差し出口ですね」

「せや。大人の差し出口や。……姉に惚れるんは狂い咲きやで」


 樹人は拳を強く握り締めた。



 七瀬は瑠璃の部屋に入るなり、ぐったりと座り込んだ。瑠璃は七瀬の為に水を用意し、帯を緩めてやる。黒い絹糸のような髪が、汗ばんだ首筋に貼りついている。


「……済まない」

「いえ」

「副長に石田散薬は貰うのだが、月のものには効かないからな」

「いつものお薬は」

「丁度今、切らしている」


 遊女も囲う陰間茶屋には、そうした薬も常備してあるが、七瀬とは相性が悪いらしく、七瀬はいつも特別に調合させた薬を持ち歩いていた。瑠璃は七瀬の為に淡泊な夕餉を用意して部屋に運んだ。

 夜の帳が下り、瑠璃は行燈に火を灯した。迷い込んだ蛾の二、三匹が、行燈に飛び込み、自らの身を焦がして焼いている。その光景に束の間目を奪われていた瑠璃の耳に、聴き慣れた、奇矯な声が届いた。


「わ~るどいずら~ぶ、ら~ぶいずわあ~るど~じゃけえ~」


 津蔵坂が来たらしい。朝も来ていたのに、また来るとは、利得抜きで本気であゆを気に入っているのかもしれない。


「津蔵坂……、いや、岡田以蔵だな」


 七瀬が苦笑気味の声を洩らす。


「捕まえられるのですか?」

「いや、『岡田以蔵』は死んだ。今のあの男は只の無頼者だ。新撰組が捕えれば、笑い者にしかならない」


 青菜と豆腐、卵を混ぜ込んだ雑炊を啜った七瀬は、心なし、来た時より血色良く、楽になったようだった。今宵は半月で、障子を開けて空を見れば皓々とした光が夜を照らしている。満月程ではないが、明るい夜だった。


「瑠璃」

「はい」

「瑠璃には、好いた男はいるか」

「――――いません」


 ふふ、と七瀬が笑う。


「信じておこう」

「七瀬様には」

「……いるよ。大切なお方が。あの方を、私は守りたいんだ」


 真摯な熱の籠る口振りだった。瑠璃は、七瀬のような佳人に慕われる相手とはどのような男だろうと考えたが、想像がつかなかった。

 銃声が聴こえたのはその時だ。

 瑠璃よりも、具合が悪かった筈の七瀬のほうが動きが機敏だった。置いていた大小の刀を引っ掴むと、部屋を飛び出す。銃声はあゆの部屋の方角からだった。瑠璃はひやりとする。樹人も駆けてくる。手には仕込み杖。売られる前、樹人は村の道場主から筋が良いと言われ、杖術と剣術を学んでいた。幼い頃の話ではあるが、三つ子の魂百までである。樹人は円月屋に来てからも、折を見ては一人稽古をしていた。


 硝煙の臭い。


 障子を開けると、床には皿や三味線がとっ散らかってあり、あゆが小太刀を構え、津蔵坂が抜刀していた。――――まだ誰も銃創を負ってはいない。部屋にいた、長身の黒い影のような男が、駆けつけた七瀬たちを睥睨した。手には拳銃。刀とどちらが有利かなど、比べるべくもない。しかし七瀬は怯まなかった。数ある剣技の中でも究極とされる一刀流の「切り落とし」を披露する。相手の攻撃に間合いや時機を合わせ、避けることなく拳銃を弾き相手の正面を捉える。それを神速でかわした相手こそ称賛されるべきだった。


「七瀬渚か」

「お前、『魔弾』か」

「そう呼ばれている」

「その男を殺させる訳には行かない」

「お利口だな」


 七瀬の判断は合理的だ。今、津蔵坂を見殺しにすると、〝罪もない武士〟を見殺しにしたことになる。かと言って「岡田以蔵」だからそれでも良しとすると、公には処刑された岡田以蔵がなぜ生きているのか、生かしていた幕府や土佐藩側の手落ちとして糾弾される。二重の意味で津蔵坂を生かそうとする七瀬を、『魔弾』は揶揄したのだ。

 『魔弾』はもう一丁の拳銃を懐から取り出した。瑠璃たちの顔から血の気が引く。『魔弾』の背後の天井から、とん、と床に降り立った『猫』が、やや短めの刀の刀身を晒した。『魔弾』がコルトM1851の引き金を引こうとしたその手に、瑠璃たちより後ろから飛来した針が、突き刺さった。思わず『魔弾』が呻く。瑠璃と樹人が振り返ればそこには檸檬絵郎が常と変らぬ風に立っていた。手には吹き矢のような物を持っている。


「護身用や」


 檸檬絵郎は絵を描いた後は疲労を取る為に円月屋に泊まることが多い。今日もたまたま、そうだった。このようにして功を奏するとは、誰も予想しなかったが。檸檬絵郎を眺めている間に剣戟の音は響く。あゆは『猫』と格闘していた。七瀬は『魔弾』に致命傷を与える隙がないかと窺っている。樹人は介入する余地を探していたが、今、下手に手出しすると七瀬の足を引っ張りかねない。


「七瀬さん、無事ですか」


 涼やかな声が響き、あたりが一瞬、清水に浸ったようだった。七瀬の横合いから抜刀した男が『魔弾』の拳銃をすぱりと両断した。恐るべき剣腕である。ぞくりと戦慄した樹人は男の風貌を凝視した。

 半月に照らされたその顔は、七瀬とはまた異なる趣で端整だ。


「隊長――――!」


 新撰組一番隊隊長・沖田総司は部下に唇で弧を描くだけに留め、『魔弾』に隙を見せようとはしない。


挿絵(By みてみん)


「隊長……沖田総司か。これはまた」


 新撰組の中でも一、二を争う剣客。猛者の剣と称された沖田総司の名は『魔弾』も知っていた。


「退くぞ、『猫』」

「あいよ」


 キイン、と澄んだ金属音が響き、あゆの小太刀を捌いた『猫』が懐から出した手を一振りすると、煙幕が生じて七瀬たちの視野が利かなくなった。もうもうとした煙のあと、『魔弾』と『猫』は姿を消していた。


「あとはうちが追うわ」


 いつの間にか姿を見せた華月が、重い金襴緞子を脱ぎ捨てて、身軽に外へ飛び出た。隠密ならではの身のこなしである。


「沖田さん。どうして」

 刀を鞘に仕舞う沖田に、七瀬が当惑した声を掛ける。

 沖田がにこりと笑って小袋を七瀬に渡す。


「いつもの薬がやっと手に入ったので、届けに来たんです」

「……ありがとうございます」


 七瀬は真っ赤になっている。新撰組の中でも、沖田を初めとする幹部の一部は、七瀬が女であることを知っているのだ。それでいて黙認しているのは、偏に七瀬の剣技と、事情を知るゆえである。瑠璃は七瀬の態度から、七瀬が想う人を知った。それからそっと樹人を見る。樹人は仕込み杖を握り、厳しい目をしている。現状、最も役に立たなかった己を不甲斐なく思っているのだろう。


〝瑠璃には、好いた男はいるか〟


 七瀬が羨ましいと思った。血の禁忌なく、想う相手と共にいられる七瀬が。


「お~。儂のいいところなかったぜよ~」


 命を狙われたというのに、津蔵坂が嘆く声が、何とも呑気だった。



檸檬絵郎:檸檬絵郎さん


友情出演してくださいました。御礼申し上げます。


檸檬絵師にも七瀬隊士にも、隠していることがあるようですね。

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