其ノ弐
瑠璃が磨いていた廊下は中庭をぐるりと囲んでいて、その中庭には蘇鉄が植わり、朱色の巨大な玻璃細工が、それと寄り添うように置かれていた。赤い系統の玻璃を生み出すのは極めて難しい技であり、その困難を巨大化してみせた玻璃細工は、そのままこの円月屋の財と人脈を物語っていた。
「姉さんと呼ぶように言ってるでしょう?」
「だって綺麗な名前だから、呼ばないと勿体ない」
「しょうがない樹人」
瑠璃は困ったように笑むと、小首を傾げた。町娘風に結われた髪を彩るものは、古びた木の櫛だけである。いつか瑠璃の髪を、漆塗りや鼈甲の櫛、珊瑚の簪で飾ってやりたいと、樹人は思っていた。丁度今、珊瑚の小さな簪を買ってやれるくらいの小金は貯めた。外出の許可が下りれば、瑠璃を伴い、小間物問屋に行く積りだ。
一時は大火に見舞われた京の町も、既に復興しつつある。佐幕、尊皇などと声高に叫ぶ浪士たちを、樹人は冷ややかな目で眺めていた。
美しいものを瑠璃に見せてやりたいと思った。囲われた鳥ではなく、自由に飛翔させてやりたいと。けれどそれを叶えるには、樹人はまだ無力だった。業腹なのが、他に瑠璃を自由にさせる力を持つ男がいることだった。初夏の候、振り向けば当の男が、贔屓の娘・あゆの肩を抱えて、悠然と歩いている。あゆが隠密であることは、男も樹人も知っている。
「おう、樹人。瑠璃は相変わらず綺麗じゃのう」
「もう、津蔵坂はん。そないなこと言わはって」
軽く津蔵坂を睨んで見せるあゆは、愛らしく桃色の唇を尖らせている。
「何で死人が陰間茶屋にいるんだよ」
「さあて、なんのことか、まっことわからんぜよ」
樹人の、客を客とも思わぬ口振りを咎める風でもなく、津蔵坂はあゆを抱いてないほうの手で耳の穴をほじる。
「――――岡田以蔵」
「それを言うんは、ちいとばかし剣呑じゃのう」
津蔵坂、もとい岡田以蔵は双眸を細くする。
この年の五月、打ち首獄門となった岡田以蔵は、人斬りとして散々、名を馳せていた。然るに処刑された岡田以蔵は影武者であり、本物は今、樹人の目の前にいる、津蔵坂あけびとふざけた偽名を名乗る男だった。二十八にしては黒目がちの瞳、通った鼻筋は精悍な武士と言うより、それこそ陰間としても通用しそうな男振りだった。以蔵は土佐藩の為に隠密裏に活動していて、あゆの上客であるのも、あゆと情報交換する為、というところが大きかった。互いに利用する間柄であることを割り切っている。
そして津蔵坂は瑠璃を気に入っていた。
執着するという程ではない。美しい花を愛でるように、瑠璃の在り様を愛でていた。だからこそ、樹人にもまだ余裕があった。津蔵坂のような上客に本気になられたら、幾ら樹人が約定を言い張ろうと、店主は瑠璃を宛がってしまうだろう。樹人はあゆと友誼を培っており、その点でも津蔵坂を悪感情だけで捉えることはない。ただ、瑠璃に好意を見せられると、保っていた筈の余裕が揺らぐのも確かで、落ち着かないのだった。
蘇鉄に群れる訳でもあるまいに蜜蜂が、ぶうんと音を立てて空を飛んでいる。
「ら~ぶいずざ、わ~るどぜよ~」
樹人には解らない米国の言葉を歌いながら、津蔵坂はあゆと廊下の向こうに消えて行った。津蔵坂の敬慕する坂本竜馬、勝海舟は、開けた人物と聴く。そんな男たちに津蔵坂も感化されたのだろうか。黙ってさえいれば薄幸な美形剣士で通るのに、と樹人はやや呆れる思いだった。
気を取り直して瑠璃を振り返る。
「瑠璃。許しを貰ってくるから、外に出よう」
「小間物屋さん?」
「そう。瑠璃に可愛い簪を買ってあげるから」
「樹人の為に、使えば良いのに。それに、旦那様が外出をお許しくださるとは限らないわ」
「華月姐さんの用事のついでと言えば良いんだよ」
この店で最も格の高い華月は、あろうことか客を取らない自由を許されている。身に着けた歌舞音曲の技を披露し、酒の相手をするだけで、男に指一本、触れさせはしないのだ。そしてそれはあゆにも共通して言えることだった。実力が全ての世界。そしてそこに有無を言わせぬ容貌が加われば、そうした自由も買えるのだ。異国の血が混じる華月の髪は栗色で、目は淡い翡翠。そこがまた、男たちを夢中にさせた。誇り高い華、と謳われる、円月屋の看板娘だ。あゆにしろ瑠璃にしろ、劣らず心酔する男たちはいて、円月屋は陰間茶屋だが男より女が潤沢と専らの噂である。そして最も売れる男は、樹人なのだった。
「じゃあ、支度をするから、樹人は」
「うん。また、あとで」
桶を持って身を翻す瑠璃の背中を、樹人は見送る。
「ら~ぶら~ぶぴ~す、ぜよ~~~」
津蔵坂の陽気な歌い声がここまで聴こえる。静かに遊べよな、と樹人は溜息を吐く。あゆは機転の利く娘だ。抜かりなく津蔵坂と情報交換を終えたあと、楽しく遊ばせてやっているのだろう。
「賑やかやなあ」
ゆったりとして艶のある声が、喧しい津蔵坂の声を退けて樹人の耳に届いた。
「華月姐さん」
「買い物に出はるの?」
「はい」
「せやったら、白粉をお願いしてもええやろか」
「もちろんです」
華月の肌は白粉などなくとも透き通る白さだ。弧を描く目元が、樹人の目論見の手伝いをしようと考えていることを知らせた。華月もまた隠密。人の機微に敏いのだ。
「ありがとうございます」
「いややわ。礼を言うんは、うちのほうやのに」
つまり、店主がごねるようであれば、華月の権威を好きなように使えと言っているのだ。
樹人は華月に頭を下げて、店主の元に向かった。
岡田以蔵こと津蔵坂あけび:津蔵坂あけびさん
あゆ:なつのあゆみさん
華月:鹿熊織座さん
それぞれ友情出演してくださいました。御礼申し上げます。