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瑠璃草子  作者: 九藤 朋
10/13

其ノ拾




挿絵(By みてみん)




 隊士それぞれの診断書に目を通していた山崎の部屋の外から、掛かる声があった。


「山崎君。良いか」

「斎藤さんですか。どうぞ」


 さらりと障子を開けて入る斎藤は、稽古着だ。夏の光を背負って立つようで眩しく、山崎は僅かに目を細めた。


「稽古の相手をしてくれないか。他の連中では相手にならない」

「俺かて斎藤さんには役不足ですやろ。永倉さんは?」

「巡察に出ている」

「はあ。そないなことでしたら」


 内心、嫌な思いを抱くが、無碍にすることも出来ない。斎藤の剣を相手取るのは、稽古とは言え至難の業なのだ。だが、他のなまなかな隊士であれば至難どころか不可能だ。それこそ病でなければ沖田などは恰好の相手だろうし、永倉であっても十分に斎藤の相手は務まるだろうが、その二人が今はそれが出来ない状況にある。軽く嘆息し、山崎は診断書を文机の上に戻した。山崎も医術ばかりに明け暮れていては武の勘が鈍る。斎藤に指名されたことは、あながち災難という訳でもなかった。


挿絵(By みてみん)


 稽古着に着替え、胴着を着ける。

 無敵の剣と称される斎藤の剣は、一言で言えば威風ある怜悧だ。精妙でありながら、その威力は計り知れない。とりわけ初太刀は外さねば、稽古とは言え怪我を負う恐れがあった。

 道場に斎藤と山崎が姿を見せると、稽古中の隊士たちにざわ、と波打つような空気が走った。


(斎藤先生と山崎先生だ)

(試合うのか)

(見ものだぞ)


 そんな囁きが交わされる。

 斎藤も山崎も竹刀を持つ。木刀であれば生死に関わることもある組み合わせだ。尤も、竹刀であっても強かに打たれれば痣は免れない。


 双方、軽く礼をして、稽古は幕を開けた。


 初太刀を紙一重でかわした山崎は冷や汗を流す。何度相手をしても、斎藤の剣の威力の凄まじさは衰えることがない。守るには攻めるのが最良。胴に打ち込んだ山崎の竹刀が斎藤に当たる。が、身をよじった為に威力は半減している。その避けた間隙に、山崎は更につけ込む。ぱあん、と山崎の竹刀が音高く弾かれ、斎藤の竹刀が頭上に振り下ろされたのを、山崎は竹刀を白刃取りで取ってくるりと回転させ、斎藤の重心を崩した。斎藤はすぐに体勢を立て直す。


 長い攻防の末、やっと斎藤の勝利で幕を閉じた稽古を、他の隊士たちは羨望の眼差しで見つめていた。



 それを聴いた時、樹人の視界が暗転した。


「――――身請け?」

「せや。こないだいらした、坂崎様が、瑠璃をご所望でな」

「見合うだけの金子を払えるのか。脱藩した浪人が」

「せやかて上士や。ああ見えて、物持ちらしいで」


 円月屋主人の言葉は、どうあっても樹人には受け容れられないものだった。

 けれど今の自分に瑠璃の身請けを防ぐ術はない。こつこつ貯めている金も、到底、瑠璃をこの店から自由にするには足りない。先にこの話を聴いた瑠璃は、条件を出したと言う。即ち、樹人も円月屋から出すこと。選べる立場にない瑠璃の、譲れぬ強気の発言を、坂崎は容易く請け負ったと言う。鳥籠から出すのは樹人だと思っていた。なのに他ならぬ瑠璃が、樹人を鳥籠から出すと言う。暗澹たる思いの樹人に、アンヌ=マリーの来訪を店の者が告げた。アンヌ=マリーの陽光のような存在感は、今の樹人には余りにそぐわず、樹人はますます気が滅入るのだった。


 キャスケットからはみ出したアンヌ=マリーの金髪が、きらきらと輝いて眩しい。


「ムッシュ樹人。元気がないのね?」

「…………」

「瑠璃絡みね」

「身請けされる」

「みうけ」

「男に、買われて連れて行かれるってことだ」


 アンヌ=マリーの青い目が真ん丸になる。


「あら。まあ」


 それでこの世の終わりのように落ち込んでいるのだと、アンヌ=マリーにも合点が行った。

 アンヌ=マリーは項垂れた樹人をしばらく眺め遣り、口を開いた。


「助けてあげましょうか?」

「――――何?」

「貴方たち二人をここから出すお金くらい、どうとでもなるわ」

「あんたに貸しは作らない」

「言ってる場合? 瑠璃が他の男に囲われて良いの?」

「…………」

「お父様に相談するわ。早まらないようにね」


 そう言うとアンヌ=マリーは使用人を従えて円月屋から去った。小気味よい、風にも似たアンヌ=マリーの言動に、樹人は幾許か救われた。


 その夜、単身で円月屋を訪れた坂崎を、いち早く出迎えたのは樹人だった。

 

「おいでなさいませ」


 そう言うと坂崎の手を取り、自分の襟元のあわいの肌に導く。視線には多分な色香を含み、艶やかな笑みを唇に刷く。これまでのように、あわよくば坂崎の関心を瑠璃から自分に移そうとする樹人の目論見は、しかし脆くも崩れた。


「私が用があるのは姉のほうだ」


 そう言って坂崎はすげなく樹人の手を押し遣ると、瑠璃の待つ部屋に向かう。樹人にそれを止める手立ても権限もない。淡い灯籠の光に浮かぶ坂崎の背中は端然として、一角の武士であることを樹人に思い知らせた。大人で、金があり、見栄えもする。廊下の柱に拳をぶつけて、樹人は低く呻いた。

 中庭の蘇鉄の葉が不穏に揺れ、赤い玻璃細工は不吉の象徴。今の樹人にはそのように感じられて仕方なかった。


 坂崎が来ることを知らされていた瑠璃は、いつもとは違い、念入りに化粧を施され、上質な着物を着て櫛、簪も豪勢であった。坂崎を迎える為についた手が、震える。樹人の笑顔を思う。樹人の為であればどんなことにも耐えられる。他の男に、肌を許すことであったとしても。


「見違えた」

「ありがとう存じます」

「私の目に狂いはなかったな。酒を、注いでもらおうか」

「はい」


 坂崎をもてなす酒肴の用意は整っていた。

 瑠璃が坂崎の盃に酒を注ぐと、坂崎はそれを呷る。口に含み、味わっているのかと思えば、唐突に瑠璃の手を引き、唇の隙間に酒を注ぎ入れた。


「ん……、」



「瑠璃。生涯、慈しむよ」


 瑠璃の涙が散る。小さな悲鳴が上がった。




今回も友情出演してくださった皆さまに御礼申し上げます。

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