聞こえちゃいけない声が聞こえる気がした。 後篇
「なあ、どう呼べばいいんだ? 間宮? 泉? さん付けとかちゃん付けのほうがいい?」
じれたのか、見えない男の子にせかされ、わたしはどうしようと、膝に視線を落とす。そもそも、男の子に名前を呼ばれたことなんて、幼稚園以来一度もない。
「わ、たしは……間宮で、いいです……あの、あなたも苗字を教えてくれたら、それで……」
「えー、別にいいだろ? レンで。呼ばれ慣れてるし」
……見えない人が呼ばれ慣れているって、いったいどういうことなんだろう。
そう思ったけれど、ツッコミを入れる度胸もないわたしは、おずおずと口を開いた。
「じゃ、じゃあ……レンくんで」
「別にくんはいらないんだけどなあ」
「わ、たし……恥ずかしいけれど……男の子を名前で呼んだこと……幼稚園の時以降、一度もなくって……」
「え、マジか」
レンくんが驚いたように声を上げるのに、わたしは縮こまってしまった。
なんだか見えない人に馬鹿にされたような気がするけれど、残念ながら見えない彼が、いったいどんな顔をしているのかはわからなかった。
ただレンくんは感心したように「はあ……」「はあ……」「そっかあ……」としきりに言っているのがいたたまれない。
……派手なグループだったらともかく、地味で目立たない普通のグループにいるわたしは、男の子とまともにしゃべったことがないから、遠巻きで見るので精一杯で、声をかけたことも、まともにおしゃべりしたこともないよ。
わたしが縮こまっていると、レンくんは「そっか」と言いながら、言葉を続ける。
「じゃあ、間宮がそれでいいんだったらそれで。じゃあな、明日もまた、来るから」
「えっ……来るって、ここに住んでいるんじゃないの?」
幽霊って、一定の場所に留まっているものじゃなかったの? それとも、それはわたしが本で読んでそう思っているだけで、実際は違うの?
わたしの素っ頓狂な言葉に、レンくんは「ぷっ」と噴き出したかと思ったら、笑い出してしまった。きっと見えていたら、お腹を抱えて笑っているような感じだ。
「あー……ごめんごめん、別に馬鹿にしたんじゃないんだ」
ひとしきり笑い声を上げてから、まだ笑って声が突っ張っているのをそのままに、レンくんは言う。
「ただ、間宮は面白いなと思っただけで」
「えっと……世間知らずで、ごめんなさい……?」
「いや、そういうのじゃなくってさ。うん。まあいいや。それじゃあ、またな」
それだけ言って、今度こそ彼の声は聞こえなくなってしまう。見えない彼は、本当になんの痕跡もなく「いなくなってしまった」んだ。
わたしは読もうと思っていた文庫本を戸棚の上に置き直すと、ベッドにぽすんと沈んだ。本を読む気が削がれてしまったんだ。
思わずしゃべってしまったけれど。結局あの男の子は誰だったんだろう。
幽霊じゃないとしたら、透明人間? それともわたしはずっと夢を見ているの?
思わずふにっと頬をつねってみた。痛くない。続けて爪を立ててみる……痛い。夢じゃない。
さっきまでの出来事は、やっぱり夢ではなかったんだよねと思いながら、レンくんが言ったことを思い返していた。
明日になったら、また来るって言っていたけれど。やっぱり来るのかなあ。
わたしはベッドにごろんと寝転がった。やっぱりまだギブスが痛い。きっと彼は、見えたら格好いい人なんだろうな。こんな地味なわたしに明るく声をかけられる人なんだもの、きっといい人だ。
そう思いながら目を閉じた。
見えない男の子と、明日も会える保障なんてないけれど。
****
日曜日になったら、近場だけでなく遠方からのお見舞い客が増えて、たくさん席のあるはずの食堂だって混雑してしまう。
だからわたしは沙羅ちゃんや絵美ちゃんと食堂で勉強するのを諦めて、ナースのお姉さんから椅子を借りてきて、わたしのベッドの周りで勉強をはじめた。
案の定、数学は一日進んだだけでちんぷんかんぷんになってしまい、沙羅ちゃんに丁寧に説明してもらわなかったら、もう授業をドロップアウトしてしまうところだった。
「以上……これでわかったかな?」
「うーん、なんとか……」
普段は優しい沙羅ちゃんも、勉強を教えるときはスパルタだ。わたしがヘロヘロになって教科書を閉じたとき、ようやく笑ってくれた。
「うん、これだったら、次の小テストも大丈夫だよ」
「考えたくない……もうちょっとしたら検査して、退院だけれど……」
「なら授業に遅れることもないから、大丈夫でしょう?」
「そうなんだけど……」
スパルタっ。わたしがそう思いながら唇を尖らせていたら、絵美ちゃんが「それじゃさっさとノートを写しちゃってね」と日本史と化学のノートを広げるので、わたしはそれらもひいこら言いながら写し終えた。
それにしても。わたしはノートを写しながら、ときどき耳を澄ませる。
今日も来るって言っていたはずのレンくんは、今はいないみたいだった。声しか聞こえないから、わからないんだけれど。
わたしがときどきノートを取る手を止めて、ちらちらと入り口を気にするのに、絵美ちゃんが「なあに、泉?」と笑う。
「えっ……なに?」
「誰か待ってるの?」
そう言われて、わたしは思わず顔を上げる。まさか見えない男の子がいないかなと探しているなんて言えないし、そもそも見えない男の子の説明なんて、わたしだってできない。
だからわたしは精一杯嘘をつくしかできなかった。
「お母さん。もうちょっとしたらギブス取ってもらって、退院処理するから」
「そっかあ……もうちょっとしたら、なんだよね」
絵美ちゃんは納得したように頬杖を突きながら、わたしがノートを取れた部分に視線を落としていた。
逆に沙羅ちゃんは困ったように眉を下げる。
「じゃあ、私たち、そろそろ帰ったほうがいい? 退院の準備するときに、邪魔でしょう?」
「ううん、今日は人が多いから、退院の処理ができるのは夕方まで時間がかかっちゃうんだって。だから、ノートを全部取るくらいはできるよ」
「そう? ならいいんだけど」
そう納得してくれたのに、わたしはほっとする。まさか、レンくんのことなんて言える訳もないから。
わたしがそう思いながらノートをどうにか写し終えると、絵美ちゃんが「そういえばさあ」と口を開くので、わたしはノートを閉じる。
「なに?」
「退院したらさ、泉。図書委員の当番、大丈夫?」
「えっと……大丈夫だけれど、どうして?」
「どうしてって、だって」
絵美ちゃんが気を遣いながら口を開こうとするけれど、それより前に沙羅ちゃんが「絵美ちゃんっ!」と肘鉄をしてきた。
えっ、なに?
「あの……なにかあった? 図書委員は、いつものことだから大丈夫なんだけれど」
「ううん。泉ちゃん、いっぱい体打ったあとだから、肉体労働は大丈夫かなと思っただけで」
「あー……しばらくは診断書出すから、体育の授業は休みになると思うけれど、それ以外は無理な運動さえしなかったら大丈夫だって先生が言ってた」
わたしは答えながらも、沙羅ちゃんと絵美ちゃんの言葉にひたすら首を傾げていた。別に変なことはひと言もなかったと思うけれど。
あと図書委員。図書委員の当番を一日休んでしまって迷惑かけてないかなと心配したけど、それ以外は特になにもなかったはずだ、多分。
わたしが訝しがっていたら、絵美ちゃんはトントンとわざとらしくノートを畳んでテーブルを突いてから、鞄にしまい込む。
「それじゃ、私たちもそろそろ帰るから! 明日はちゃんと学校来てね!」
「え? うん。わかった。本当にノートありがとう」
「いいのいいの! じゃあ沙羅も行こう!」
「うん。泉ちゃんまたね」
「またね」
慌ただしくふたりが出て行ってしまったので、わたしはぱちくりとしながらふたりの背中を見送った。
なんだろう、ふたりともなにか隠してるような……。そう思ってみたものの、ふたりしてわたしを騙しても、特になにもいいことはないような気がする。
気にしない方がいいのかな。そう思いながら取り終えたノートを鞄に入れて、お母さんが来るまで沙羅ちゃんの貸してくれた本を読もうとしたとき。
「あれ、また本読んでる」
そう声がかけられて、気が付いた。見えないけれど、レンくんがいるような気がする。
「レンくん?」
「おう。元気してたか?」
明るく声をかけられると、本当に不思議だ。見えないことを除けば、彼からは幽霊特有の湿っぽい雰囲気を感じない。それとも透明人間だとそうなのかな。
わたしは頷くと、レンくんは「そっかそっか」と反芻する。
「なに読んでんだ?」
「ええっと、追いかけている作家さんの本」
「タイトルは?」
「あんまり興味ないと思うよ?」
「有名な本じゃないんだ?」
「うーんと、知る人ぞ知る人。かな」
本の説明をするのは苦手だ。だって本を好きじゃない人は、そもそも教科書に載っているような作者以外の本は知らない。ミーハーな活字読みの人だったら、そもそも流行作家やドラマ化映画化された小説じゃなかったら知らないから、マイナーな本の名前を上げても「知らない」で会話が途切れてしまうから。
わたしが言葉を詰まらせていたら、レンくんは人懐っこい声で続ける。
「どんな話?」
「ええっと……剣道を習っている男の子の青春小説、かな」
「主人公は高校生なのか?」
「違うよ。ええっと……舞台は江戸時代で、地方の話なの」
たどたどしく説明するのがもどかしい。本を好きだというと、本好き同士だったら盛り上がるけれど、それ以外の人に話をしたら、だいたいどちらかが聞き役になってしまって、会話のキャッチボールにならないからだ。
こんな話をして楽しいのかな……。だんだんと声がすぼまっていくけれど、レンくんは「そっかそっか」と適度に相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれたのに、少しだけほっとする。……きっと彼は、見えない男の子だから、最後まで話ができたんだ。見える男の子だったら、きっとここまで話をすることなんてできない。
わたしが話の内容を説明し終えたら、レンくんは「間宮は」と声を出す。
「本が好きだなあ」
そうしみじみとした感想を言われてしまうと、わたしは思わず縮こまる。
からかわれた覚えしかないせいで、友達以外にはあまり本が好きだと言えないし、話題にもしない。だからそう言われてしまうとどうすればいいのかわからなかった。
「あれ、俺変なことを言ったか?」
「い、言ってないよ? 言ってない……」
「ふうん」
レンくんがどういう顔をして相槌を打っているのかはわからないけれど、多分悪い人ではないんだろうなと思う。
わたしはほっとしていたところで「泉ー」と言う声が聞こえてきたのに気付いた。
お母さんが来たってことは、そろそろ退院なんだ。
「あのね、わたしもうちょっとしたら退院なの。ギブス外して、検査を終えたら退院」
「そっか。おめでとう」
「ええっと、レンくんも最初会ったときに、叫んでごめんなさい」
そう言うと、レンくんは「いやいや」と笑う。
「別に気にすんなって」
「でも……もう、お別れだし……」
「え? どうして?」
「ええ?」
意外なことを言われて、わたしはきょとんとした。
レンくんが幽霊なのか透明人間なのかはわからないけれど、わたしが退院したら、もう会わないんじゃあと、そう思っていたのに。
わたしが呆気に取られていたら、あっさりとレンくんは言う。
「だって、明日からまた会うだろ?」
「ええ……?」
「間宮はそそっかしいから、見といてやるから、気にすんなって」
そう言われてしまい、わたしはますます目を剥いてしまった。
……ちょっと待って。どうして、見えない男の子が、わたしについてくるの? それ、どういう意味?
わたしが目を白黒としている間に、レンくんは「じゃあな、また明日」という声を残してなんの痕跡も残さずにいなくなってしまった。
入れ替わりにカーテンが開いたかと思ったら、お母さんがやってくる。
「あら、泉。そろそろ検査に行くけど、大丈夫?」
その言葉に、わたしはなんの返事もできなかった。