たしかにそれは恋でした。 前篇
あのとき、蝉川くんは多分救急車に乗ったんだと思う。救急隊員の人と警察に事情を説明するために。
ひどいものを見せちゃったんだなと、丸一日起きなかったせいで、そのときのことは想像することしかできなかったけれど。
多分うちに連絡をしてくれたのは沙羅ちゃんだ。だからお母さんが来てくれたんだろう。
わたしの蝉川くんに関する記憶が抜け落ちてしまったとき、どうして見えることも触ることもできなくなっていたのかは、わたしが車いすでぼんやりしている間に、先生がお母さんに説明してくれていた。ただ、あのとき、わたしはそれを上手く認識することができなかった。
「緑内障は、片方ずつじゃないと診断が難しいというのはご存知ですか?」
「ええっと……どういうことでしょうか?」
「はい、両目でものを見ても、物がふたつに見えることがないのは、利き目のほうの見えない視力を、もう片方の目で情報を補っているせいです。欠けているものをもう片方で補われてしまったら、診察が困難ですから、片方ずつ診断しなければならないんです。泉さんの記憶も同じで、忘れてしまった彼のことを思い出せないせいで、無意識のうちにいないものと判断してしまったようです」
「それって……」
「脳というものは、簡単に本人を騙してしまうんです。昔、脳の実験でこんなものがありました。ある監視カメラに映った犯人の姿を皆で再現しようというものです。見せた実験対象たちの中にサクラを混ぜ、サクラが嘘の犯人像を口にしてしまったところ、実験対象たちの記憶は混同し、間違った犯人像が完成してしまったんです。人間は自分にとって都合の悪いもの、気持ち悪いものは無意識のうちに遠ざけようとします。泉さんの場合も、忘れてしまった蝉川くんのことを「見えない」と認識することでなかったことにしてしまったんだと推測できます」
「それは……元に戻るものなんでしょうか?」
「わかりません。記憶が戻ることもあれば、戻らないこともあります。ひと月。ひと月経っても戻らない場合は、そのほとんどは戻ることがありません……ただ、無理に思い出させようとすることだけは、どうかやめてください」
「と、言いますのは?」
「記憶喪失になった場合、思い出すのに脳に負荷やストレスがかかります。自主的に思い出すならともかく、周りからせっつかれた場合、泉さんの脳にどう作用するかわかりませんから。彼女が自主的に思い出したいと行動するまでは、どうか待ってあげてください」
わたしが忘れてしまっても、彼のことを認識できなくなってしまっても、どうして蝉川くんはわたしにちょっかいをかけてきたのかはわからない。
目の前でトラックに跳ねられたのを見て、責任を感じてしまったのかもしれない。だって、あれは本当にわたしが悪かったんであって、蝉川くんはなにも悪くなかったの。
むしろ、「見えない」わたしは、無自覚とはいえど、なんであんなに彼を振り回したのか、本当に意味がわからない。
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わたしは今までのことを一気に思い出したら、顔がだんだんと火照って、申し訳なさで萎縮してしまい、体を海老のように折り曲げて、ベッドで丸まってしまった。
スマホ越しに、塩田さんの『間宮さん! 本当に大丈夫!?』という声が響く。……本当に、塩田さんに対しても申し訳がなさすぎる。
「ごめんなさい、塩田さん……あのとき、わたしが勝手に跳ねられただけで、皆悪くなかったのに……」
『え、間宮さん……思い出したの?』
「うん……塩田さんから話を聞いたら……皆にひどいことしちゃったから、明日顔を合わせにくい」
沙羅ちゃんは蝉川くんに対して明らかに怒っていたのは、わたしの記憶喪失の事情を、既にお母さんから聞いていたせいだろう。わたしを刺激したくなかったんだと思う。多分は絵美ちゃんも。
退院してから滝くんとしゃべる機会が増えたのは、もしかしたら、隣に蝉川くんがいたから、少しでも彼がわたしの近くにいても自然になるよう気を遣っていた……って考えるのは、わたしに都合がよすぎるのかな。
蝉川くんは、わたしが全部忘れちゃったのにずっと横にいてくれたのはなんでなんだろう。
それだけは、わたしはどうしてもわからなかった。
わたしがぐるぐる考えていると、スマホ越しに『ふう』と塩田さんの溜息が耳に入った。
『ちゃんと、蝉っちに告白、したほうがいいと思うよ。間宮さんは』
「……っ! わ、わたし……あれだけ迷惑かけたのに……どうして今更、思い出したからって、そんなこと言え……」
『あたしねえ、蝉っちに告白したけど、フラれちゃったんだよねえ』
そうしみじみとした口調で言う塩田さんに、わたしは思わず目を瞬かせた。
塩田さんは見た目は派手だけれど、わたしなんかよりもよっぽど機微のわかっている子だし、面倒見だっていい。性格無茶苦茶いい子なのに……。
『んー、フラれた理由を言っちゃうのは、蝉っちに対してフェアじゃないから言わない。でも間宮さんがネガネガしく考えることじゃないと思うなあ』
「で、でも……その、わたし、なんか……」
『案外、自分のいいところなんて自分だとわっかんないもんだからなあ。蝉っちだっていいところいっぱいあるけど、ぜーんぶ無自覚なんだもん。間宮さんだってそうだよ。ダイジョブダイジョブ、当たっても砕けたりしないから。あ、あたしに悪いとか思わなくっていいよー? あたし、もう新しい彼氏できてるからさ』
そう言い残して、一方的に塩田さんに電話を切られてしまった。わたしはようやくスマホを持ったまま、ベッドにぺたんと座り込んで、考え直す。
本当に、明日どんな顔で皆に会えばいいんだろう。
なによりも、蝉川くんと顔を合わせて、まともにしゃべれるんだろうか。
わたしはのろのろと制服のスカートに手を突っ込むと、生徒手帳を取り出した。
笑顔でにこにこ笑っている蝉川くんと、ぎこちなく引きつった顔をしているブサイクなわたしのプリクラ。
きっと、蝉川くんのことを覚えていたら、プリクラだって撮る勇気はなかった。
告白する勇気だって微塵も湧いてこないけれど。でも。
せめて記憶が戻ったことくらいは、伝えたいなあ。
わたしはそう思いながら、生徒手帳を抱きしめた。




