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好きな人がいることにした。  作者: 石田空


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19/24

……思い出した。 前篇

 蝉の鳴き声がけたたましい。

 テストがはじまって、教室の空気も冷房の冷気と一緒に集中の熱気が篭もって、混沌とした雰囲気になっている。

 あの日以来、レンくんの声はピタリと聞こえなくなってしまった。図書館に行っても、人気のない廊下に出ても、彼の声を聞くことがとうとうできなくなってしまった。

 レンくんの声が聞こえなくなると、途端にきゅっと心臓が痛くなる。

 唯一彼がいると証明してくれるのはプリクラだけれど、それを貼っている生徒手帳を毎日開けて眺めるわけにもいかず、ただ生徒手帳を制服のスカートのポケットに入れて、ときどきスカート越しに生徒手帳に触れて、安心するしかない。

 彼はたしかにいると。

 テスト期間のせいで、病院に通院する回数も減り、わたしがひとりでネットや図書館で勉強した記憶喪失に対する疑問を打ち明ける機会もなく、次の通院までずるずると待つしかできなくなっている。

 塩田さんとはというと、話をしたくっても、タイミングが悪く、いつも邪魔が入る。

 廊下で話をしようとしたら、沙羅ちゃんから「ちょっとごめん……掃除当番の子がひとり先に帰っちゃって……悪いんだけれど、手伝ってくれる?」と言われてしまったら、班の半分以上が勉強や面倒臭いといいわけ並べて帰っちゃっている状態なんだから、手伝わない訳にはいかない。

 放課後に待ち合わせしようとしたら、絵美ちゃんから「泉ー! ちょっと部活の記事読んで欲しいんだけど!」と頼まれる。どうも大会で選考に通ったらしく、その発表のために新しい記事を書かないといけないという。

 ふたりがあからさまに塩田さんへの接触を阻もうとするのに、さすがに塩田さんに悪いんじゃと思っていたけれど、そのたびに塩田さんは目尻を下げて笑っている。


「あぁあ、やっぱりあたし嫌われてるねえ」


 そうしみじみと言うものだから、申し訳ない。

 彼女はそこまで悪い人とは思えないんだけれど、あからさまにふたりは敵視しているのが気になった。

 でも……レンくんが塩田さんのことを呼んでいたことも、まだ聞けていない。

 こうしてまともに塩田さんとしゃべれないまま、テスト期間は終了してしまった。

 あとは自習日のあと、学校の大掃除をやって、ようやく終業式だ。

 わたしは今度こそ塩田さんに話をしたいと思いながら、塩田さんと廊下で出会ったときに、ひょいと彼女のスカートのポケットに突っ込んだ。それに塩田さんは「おっ?」と振り返ると、わたしは頭を下げる。

 彼女のポケットに入れたのはメモ。わたしのスマホアプリのIDが書いてある。

 本当だったら直接会って直接話を聞きたいけれど、こうも邪魔が入るんだったら、アプリで話を付けたほうがよさそうだ。

 わたしは素知らぬ顔でIDを渡したあと、そのまま何事もなく学校を済ませる。

 テストの点は、やっぱり現国以外は可もなく不可もない点数で、赤点をギリギリ回避しているだけだった。これで来年の受験は大丈夫なのかとは思うけれど、できるだけわたしの偏差値で行けて、わたしのやりたいことやれる大学を選ぶしかない。

 アプリで話をすればいいやと思って、その日は塩田さんを探すこともなく、沙羅ちゃんと一緒に帰る。

 沙羅ちゃんは蝉の鳴き声に目を細めながら、にっこりと笑う。


「今年もサッカー部、インターハイに出るんだってね」

「へえ……今年はどこでするの?」

「うん、M県。応援に行けるといいんだけど」

「結構遠いねえ」


 去年もわたしは沙羅ちゃんと一緒にサッカー部の応援にインターハイまで行っていた。去年は親戚のつてがあったから、それで泊まることで旅費を浮かせて応援に行けたけれど、今年はつてがなさそうだ。

 去年は学校からの応援団は他の部のほうに回ってしまっていたせいで、そこについていって応援に行くことができなかった。今年は結構強いから、サッカー部のほうにも応援を回してくれたら、一緒に応援に行けるのになあ。

 わたしがそうしみじみと思っていたら、ふと沙羅ちゃんと目が合う。沙羅ちゃんがまじまじとわたしのほうを見て、遠慮がちに言う。


「……泉ちゃんは、今でもやっぱり思い出したい?」

「え?」


 一瞬なんのことかと思ったけれど、トラックが道路でエンジンを噴かせている音に、わたしは肩を強張らせる。

 トラックに跳ねられた前後のことは記憶が飛んでいるくせに、トラックを見た途端に体が強張るのは、未だに治らない。

 そのわたしの態度を見て、沙羅ちゃんはそっとわたしを車道の反対側に押して、沙羅ちゃんが車道側に回って歩き直す。そして、ぽつんと言った。


「私は、思い出して泉ちゃんが辛くなっちゃうのなら、思い出さなくってもいいって、今でも思ってる」

「え……沙羅ちゃん?」


 わたしが思わず沙羅ちゃんの顔をまじまじと眺めると、沙羅ちゃんはゆるりと笑う。目尻を下げて、今にも泣きだしそうな顔をされてしまったら、彼女は本気でわたしが傷付くのを嫌がっているんだって、わかってしまう。


「泉ちゃんは思い出したそうで、いろいろなにかやってるのは知ってても、どうしても邪魔しちゃう……説明しなかったら、ただ意地悪しているようにしか見えないはずなのに、それでも言えなかった。ごめんね」

「……沙羅ちゃん。ごめん。心配してくれるのは嬉しいけど、でもね」


 わたしはスカートの上から、ポケットを撫でる。今日も生徒手帳はそこにある。

 ……レンくんは、たしかにいるはずなんだ。

 彼が黙ってしまったら、もうわたしだとどこにいるのかもなにをしているのかもわからない。でも、わたしと遊びに行った彼は、たしかにいるはずなんだよ。

 見えない、触れない、声だけしか聞こえない。

 いるのかもどうなのかもわからない人を、ずっといるって思い続けるのは、結構疲れるんだ。


「……前にもちょっとだけ言ったけどね。好きな人が、いるんだ」

「泉ちゃん」


 沙羅ちゃんは眉を潜ませる。……本当に、沙羅ちゃんはレンくんのことが嫌なんだなあ。塩田さんに向けていたのと同じような、棘のある顔をする沙羅ちゃんを安心させるように、わたしは笑顔で続ける。


「でもね、わたしには何故か見えないし、触れない……本当に、どうしてこうなったのかわたしにもわからない。病院で検査しても、わたし悪いところなんてどこにもないんだよ?」

「泉ちゃん……それ、本当?」

「嘘ついてもしょうがないよ。誰も信じられないだろうから、わたしもこれを口にしたことって、ないけどね……過去のわたしは、なにかやってた。それがなんなのか、わたしは知りたいんだ」

「……泉ちゃん」


 沙羅ちゃんは眉を潜ませて、唇を噛み、なにかを必死で考えているように視線を落とした。

 本当だったらわたしを説き伏せて、その考えを捨てさせたいんだと思う。

 でも、彼女は一瞬だけかぶりを振ったあと、こちらに対して口角を持ち上げた。


「うん、泉ちゃんが決めたんだったら、それでいいよ」

「沙羅ちゃん……ありがとう」

「泣きたくなったら、私はいつでも待ってるからね?」


 そういたずらっぽく笑う沙羅ちゃんに、わたしは心から感謝した。


****


 家に帰ったあと、スマホを確認したら、知らないIDからアプリチャットが入っていた。

 確認したら、それは塩田さんだった。


桃子【間宮さん、大丈夫?】


 すぐに返信した。


泉【はい、大丈夫。ごめんね、いきなりID押し付けて】

桃子【いや、いいよ。聞きたかったのは、間宮さんが事故に遭った日のことだよねえ】

泉【うん】

桃子【でも、間宮さんの友達も結構トラウマってるみたいだからねえ……だから、多分言いたがらなかったんだとは思うよ。何度も邪魔してきてたのは、それが原因だと思うな。あの子たちもパニックになっていただけなんだから、そこは許してあげてね】


 塩田さんは存外面倒見がいいらしい。

 そういえば、派手な外見でよく遊んで帰っているみたいだけれど、グループの女の子たちの姉御分みたいで、よく甘えてきている子たちの面倒を見ているようだったなと、あまり交流のないグループの様子を振り返りながらそう思う。

 わたしは彼女の言葉にありがたく思いながら、言葉をタップした。


泉【大丈夫。友達ともちゃんと話をしたらわかってくれたから】

桃子【そっか。それなら大丈夫かな。あー、こっから先は、電話で大丈夫?】

泉【えっ? うん】


 すぐ、アプリの電話機能がついて、スマホが鳴った。わたしはそれを取る。


「もしもし」

『ごめんね、無理に電話にしてもらって』

「ううん、わたしのほうこそ、何度も何度も押しかけたのに」

『そりゃ記憶が飛んでたら気になるから、それは気にしないで……じゃ、あのときのことだけど』


 内容を聞いた途端、わたしは目の前が真っ白になったような気がした。

 視界がぐにゃりと魚眼レンズを覗き込んだときのように、曲がって見える。まるでくるくる回って、世界全体がぐるぐる回っているような錯覚に陥ったような。わたしが黙り込んだのを、慌てて塩田さんが声をかけてくる。


『ちょっと、間宮さん大丈夫!?』

「ごめん……ちょっとショックを受けただけだったから……でも、そのせいかな。思い出した、みたい」


 わたしはベッドに突っ伏して、鞄を漁った。

 神社で買ったお守りがふたつ。

 ひとつは渡しそびれたもの、もうひとつは訳もわからないまま買ったもの。

 馬鹿だなあ……わたし、本当に馬鹿だ。いろんな人に心配されて、守られていたのに。本当に、馬鹿だなあ。


「……蝉川くん」


 好きな人の顔も、名前も、忘れてしまっていたなんて、大馬鹿だ。

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