無差別級で
蛍光色の様な黄緑の畳の目が、顎先から落ちる汗を弾いた。全身が汗で濡れているのに、体中が凍り付いて動かない。一瞬にして脳が働き出したせいか、一秒感を普段の百倍も長く感じる。俺の脳はパニックを起こしているようだ。歓声とかけ声と叫声と会話とが順番に聞こえて、その後でひとつの音に掻き混ぜられて、誰が何処で何を言っているのかわからなかった。ひとつずつ現状を認識しなければならない。
まず俺は立ち上がらなければならない。膝を立て、立ち上がる。それはとても容易なことだった。どんな風に筋肉を動かして、どんな風に骨で支えて立ち上がったのか、そんなことを意識するまでもないほどに、当たり前で容易な動作だった。顔は上げずそのままゆるんだ腰の帯を締め直し、元の位置に戻った。正面、二間先には、先に相手が待っているのがわかった。とても顔を上げられない気持ちだった。普段の俺なら、決して相手の顔を見れないだろう。だけど、この五十枚の畳の中では、俺は礼を通さねばならない。もしそれができなければ、俺の心は、俺自身を武道家だと認めることができなくなるからだ。硬く結ばれた口の中は、唾を飲むことも息を吸うことも、舌を動かすこともできない。数分前よりも、ずっと緊張していた。そのまま、自分の気持ちと誇りを天秤に掛け、決心して相手と目を合わせた。
石切史源という。
彼の表情から、俺は何を読みとればいいのか、ほんの小さな欠片すら見つけられなかった。ただ俺は、絶対にしてはいけない事をした。という気がした。それは確信よりも確かな感覚だった。
喉の源から沸き上がる「待ってくれ」という言葉をなけなしのプライドで飲み込み、石切と目を合わせたまま、視界の端で審判の動作を確認した。
「一本勝ち」
と、わざわざ宣言して、審判が手を挙げた。
試合感の染み着いた右足が、自然と一歩後ろに下がり、石切と俺は同じタイミングで礼をした。それから、もう目は合わせなかった。石切も俺の顔を見ようとは思わなかっただろう。
失望されただろうか。
そんなことを気にしながら生きた事なんてないはずなのに、胸の中の密密としたジャングルに小さな生き物が巣食った。
誰かが石切と俺をライバルと呼んだ。
そんなこと俺たちはずっとどうでもよかった。ただお互いにとって一番強い奴と戦える場所まで来たとき、いつも目の前に立つのが、俺にとっては石切で、石切にとっては俺だった。他の奴とは違う。畳の上に踏み出した瞬間から、ただそこに垂直に立つ事に全身全霊で集中し、足の小指の一番小さな骨まで繊細に感じて歩かなければならない。おそらくそれは、人間として味わえる世界ではなかった。その場所に立ったとき、そこにいるのはたったふたりの柔道家だけだ。柔道をプレイする人間ではなく、柔道家という生命体になる。俺たちはトーナメント表の一番高い位置に来たとき、やっとそのステージに上がれる事を知って、その先の高みへ踏み込む瞬間の虜になった。何かひとつ、些細な気配りを、細心の注意を、統一的な集中を怠れば負ける。勝つために意識のすべてを戦いに捧げる覚悟がなければ、その時は容易く、醜怪で凡庸な敗北を味わう事になる。次のステージへ進む資格は、本気の戦いを制する以外にはあり得ないのだと、俺たちの体はいつの間にか気が付いていた。
だから俺は、なんとしても石切から一本を取って勝たなければならなかった。今日の試合は、今まで味わったどんな敗北の味よりも、最悪な苦痛を俺に与えた。
やる場所のないもどかしさに、掌が戦慄く。俺は会場に響く拍手の音から逃げるように会場を出た。
水城春子は足が速い。
「なぜなら、いつも走ってるからね」
独り言で自分を鼓舞し、ラストスパートをかける。駆ける駆ける。
電車を降りてからの道順に迷うことはなかった。自分も今まで選手として何度も足を運んだ武道館だ。中学受験さえ控えていなければ、今日も塾なんて投飛ばして試合に出たかった。だけどそれは仕方がない。私立中学にスポーツ推薦で入学できるほどの成績があるわけでもないのだから。
一般受験をするしかない。
しかし私はバカだった!
なんてこった。
塾をサボってる場合じゃない。
とは言え、私は本当はもっと余裕でここにこれたはずだったのだ。
「りりちゃんのバカやろぉおおお!」
と、私にだけ追加で課題を出した算数担当の女子大学生講師へ、怒りの感情を叫ぶ。
手の中では、スマートフォンの画面に「準決おわったよ。今回もやっぱり石切と秋生だ」と、私と百家秋生の道場の先生のひとりにして、私の父親から、SNSでメッセージが送られて来ていた。
それが何分前の事かわからないけれど、とにかく私は走った。準決勝から決勝までの間には、体力回復の為に必ずインターバルがあるはずだ。まだギリギリ間に合うかもしれない。「決勝までには会場に行くから、ちゃんと優勝しろよ」と偉そうに約束しておいて、間に合わないんじゃダサすぎる。
試合会場になっている武道館の入り口前の広場に着くと、玄関口の階段の端っこに、見慣れた影が座っていた。
「……秋生」
私の声が聞こえたわけじゃないだろうけど、誰かが来たことには気付いたのか、秋生はうつ伏していた顔を上げた。私はやっと足を止め息を整えて、彼に近づいた。五メートルくらいまで距離を詰めたところで、私は何かが変だという事に確信を持った。
何がおかしいのか、それはとっさに説明が付くほど単純な事ではなかった。私はこの状況で、こういう顔をする百家秋生を見たことがない。それが違和感の原因。
はっきりとはわからないけれど、答えを知っているような、矛盾した気持ちでいた。わかるんだけど、説明ができない。って感じだ。
「秋生。決勝は……」
ここに今いると言うことはもう終わったのだろう、と思う。
しかしいつもの秋生なら、勝てばもっと幸福そうだし、負ければ二日は目の腫れが引かないほど涙を流す。こういう、なんというか、青ざめたというか、暗いというか、そういう悲劇でも起きたような表情をしているのは初めて見た。
秋生はニュートンのリンゴよりも自然に視線を地面に落とすと、軽く首を横に振った。
「まだ……まだできた」
と、尻すぼみに小さないいわけをした。そのひとことは、アスリートが次を目指すために必要な言葉だという気もする。その悔しさがあるから、同じ轍を踏まないための努力ができるんだ。そうでもなければ、努力なんて難しいこと、そう簡単にできはしない。
ただ、秋生の言葉はやっぱり、悔しさという響きとは違った種類のものに聞こえる。強いて言うなら、絶対にやってはいけないミスを犯したサラリーマンのような、張りつめた空気感。それも、即座に「クビだ」と宣告されるレベルのミスだ。
それとも、それだけ今回の敗戦は衝撃が強かったのだろうか。
それもあるかもしれない。
今日開催されている大会は、年に二回、春と秋にあって、小学生の部は学年別にトーナメント形式で試合をする。秋生と石切は体重に差があるから、いつもトーナメント表では別の山にエントリーされていて、毎回決勝でぶつかっていた。
けど、中学に上がると、学年別ではなく、体重別でトーナメント表が作られる。だから体重差のあるふたりにとって、六年生の秋に開催される今回が、最後の対戦だったのだ。
なんて声を掛ければいいのか、見当も付かなかった。
「勝敗なんて、どうでもよかったのに」
秋生が言った。
私は意味が分からず、そのまま捻りもなく「どういう意味」と訊いた。
「春子、ただ決着を急ぐためだけにあるルールなんて。いったい誰が考えたんだろうな」
相変わらず、意味はよく理解できなかったけれど。
百家秋生の表情の正体は、どうしようもない事に対する怒りなんだと思った。
俺はただ、最高の試合をしたかっただけなのに。
その思いは俺も百家も同じだったと思う。
なのに。
「情けねえ」
口から出た五つの音は、水道の蛇口から流れる水と一緒に、排水溝へ流れた。蛇口を上に向け水を顔面に浴びせる。周りに飛沫が飛び散って床が濡れていたけれど、そんなことは気にならなかった。
胸の中心に打ち込まれた植物の種が、ものすごい勢いで成長してツタを延ばしている。多分名前はナサケナ草とかだ。
呆然と、何もできずに過ぎ去った風景を鮮明に思い出すことができる。
最後に俺と百家の目があった。
彼がどんな感情でいたのか、その瞳からは想像も付かなかった。情けなさと恥ずかしさが一気に押し寄せてきて、目線を動かす事ができないほどに体が硬直した。
失望されたかもしれない。俺たちは、お互いに欲しがっていたものを、この試合で手に入れる事はできなかったのだ。
「一本勝ち」
と言って、審判が、百家の側の腕をまっすぐと挙げた。
自分で握った拳が骨折するんじゃないかと思うくらい、手に力がこもるのが感じられた。礼をするために何とか指を伸ばした。
なんで試合が終わっているんだ。
俺はまだできる。まだ戦えるのに。体力も消耗していない。まだ戦える。第一、俺たちの間で、決着は付いていないのに、どうして試合が終わっているんだ。
まだできるのに。
だけど、負けた俺に何かを言う資格はない。あるはずがない。
ただ、決着をつけさせてくれなかったルールが憎かった。
石切は俺よりも十センチ近く身長が高い。得意技の大外刈は、完璧に決まれば、勢いで相手のクビがむち打ちになることもあるほどの威力がある。
俺は身長差を生かして懐に入り込み、一瞬で決める背負投が得意だった。
俺たちの試合は、大抵、どちらかが得意としている技を高い完成度で決めたときに決着していた。
審判の「待て」が掛かり、タイマーを確認すると、まだ試合開始から三十秒だった。
先に俺の背負投が中途半端に決まり、ポイントの上ではリードしている。
「始め」
と審判が言う。
足の裏と畳がすれる音を聞きながら、俺と石切は試合場のほとんど中央で組み手を取り合う。
柔道の組み手は、打撃を受ける心配がない分、ボクシングのジャブよりも速度が速い。その手を空中の間に何度も弾き合い、掴んでは引き剥がし、身を寄せては引いた。その反応速度は、ほとんど反射と言ってもいいほどのものだった。
感覚が快感に極まっている。目で石切の手の動きを確認できたときには、すでにその手を自分の左手が下へ弾き、そのまま相手の襟に向かっている。石切は一瞥もせず、肩を入れて襟を守った。だが俺はその肩を鷲掴みにして引き寄せ、そのまま右手で首元の襟を狙いながら、全身で突っ込んだ。
さっき掛け損ねた背負投よりもさらに早く、さらに重く、さらに繊細に修正して体を反転させた。しかし、石切も俺がまた背負投を使うことはわかっていた。相手もまたさっきよりも、重要な神経を総動員して抵抗した。その結果俺は、最後の最後で左手で相手の袖を掴み損ねてしまった。だがそれでも、決めきる。そう覚悟をし、兎に角石切の柔道着を掴んみ、投げた。ふたりの体が畳の上に倒れる。
それは一本の感触ではないとすぐにわかって身を起こし、四つん這いになった。
石切もいち早く体制を直し、立ち上がっていた。
しかし。
「技あり。合わせて一本――」
その時まで、何を言っているのかわからなかった。
「――それまで」
待て、ではなく、それまでと言った。それは試合が終了したという意味だ。
俺は、一度目の背負投で技ありを取り、そしてもう一度技ありを取ってしまった。
汗が冷えて行くのがわかった。
今、これからだったのに。まだこの最高の戦いが続くはずなのに。
一本を取ったわけでも、時間いっぱい戦ったわけでも、まして反則を取ったわけでもないのに、俺と石切の最後の試合は、強制終了されてしまった。
「あ」
「あ」
「あ」
最初に声を発したのは春子だった。
それに釣られて振り返ると、会場の玄関口から出てきた石切と目が合い、ほとんど同時に声を発した。
ちょうど今、試合の結末を聞いた春子は、気まずそうにしている。俺だって、こんなふたりを前にしたら何もしゃべれなくなる自信がある。石切と俺は、試合会場で会っても、そんなに会話をすることはなかった。いつも通りならこのまま彼は素通りしていただろう。今日もそのはずだった。けれど俺は、今声を掛けなければいけない気がした。
本当は情けない結末にしてしまって、申し訳が立たなくて、できれば顔を合わせたい気分じゃない。
だけど、俺たちはこの気持ちの根本的な解決方法を知っている。
それは、例えばオリンピックを目指すときに、大きな寄り道になるかもしれない。
それは、例えば誰かが無駄な事だと言うかもしれない。
とてつもなく大変な事で、最終的に何の結果も残せない可能性だってずっと高くなる。
それでも、百家秋生にとって、石切史源は、たったひとりの石切史源でしかない。友達でもライバルでもない。俺たちの人間関係に名前は必要ないんだ。ただそこに、意図しない絆がある。
だから俺たちは通じていた。
本気の戦いをする方法はまだある。
「またな」
と俺はひとことだけ言った。
いつかそのステージの頂点にふたりが辿り着く日まで、決着はお預けだ。
「ああ。次は――」