Chapter.5 Royal York City 1
ニューヨークの街は、映画や小説などでよくこう表現される――――「眠らない街」、と。
それはたしかにその通りだった。日付が変わる時間になっても街は昼間と変わらず賑やかで、違うのは街中を照らす明かりが太陽の光からネオンの電飾へと切り替わったぐらいだ。
……そのため、無作為に街を徘徊する一般人はおろか、ジャンキーや娼婦やホームレスたちは、街のあちこちに停車する、周囲の風景に溶け込んだ何の変哲も無い十数台もの乗用車の中に潜む「獣」の存在に気づかなかった。
この世界有数の大都市を、混沌の渦に叩き込む社会の害毒に。
ふいに、そのニューヨークの街の中央の大通りを、1台の真っ白なバンが通りかかった。車体の側面には、「New Jersey Central Bank(ニュージャージー州中央銀行)」の文字。そして、後方の窓は何故か不自然に黒く塗りつぶされていた。
極めつけは、そのバンの後ろをつかず離れずの距離で追従する数台の漆黒の装甲車。
それら全てが、「獣」の五感に訴えかけてくる。その純白のバンこそが、待ち望んでいた仕留めるべき獲物だと。
―――「獣」の縄張りに飛び込んできた、間抜けで哀れな子羊よ。祈るなら今のうちだぜ。
人目を避けて停まっている車の中でぎゅうぎゅう詰めになっている「獣」たちは、それぞれが手に大きな重火器類を持ち窮屈そうに体を折り曲げていた。かれこれ1時間はこの体勢のままだ。さらには車内に充満する、鉄と火薬と、蒸発した汗の入り混じった鼻をつく匂い。…しかし、そんな状態も後少し。もう少しで、いつものバーでいつもより10倍はうまい酒が飲める。そして何より――――「この街が手に入る」。
彼らは皆思い思いの夢を想像して、笑みをこぼした。
人生の勝者。世界一の都市の支配者………。
しかし間もなくして、夢見心地な彼らは一気に現実へと引き戻され、同時に五感の全てが一瞬のうちに研ぎ澄まされた。
ついに獲物が網に掛かった。街路樹が生い茂り、大勢の人が歩き回り、待ち伏せする彼らの車が密集する大通りに、その白塗りのバンが入ってきたのだ。
それを見て、十数台あるうちの一番大きいワゴンに乗ったウエスタンハットの男は一度深呼吸をした。
これが人生をバラ色に変える最高の日となるか。はてまた、仲間を失い絶望の淵に立たされる最悪の一日となるか…。
その男バールは、額に汗を垂らしながら不気味にうっすらと笑みを浮かべ、腰に提げていた旧式のトランシーバーを口元に当てて一言だけ言い放った。
運命の計画の、合図を。
〈Let’s get started!(さあ、おっ始めようぜ!)〉
―――刹那、散在して待機していた十数台もの車が一気にアクセルを踏み込んで飛び出し、大通りに入り込んだバンの周りを一瞬にして囲んだ。
間髪入れず、慌ててブレーキを踏み正面に来た車との衝突を避けようとしたバン目掛けて、全ての車から数十人もの「獣」たちがドアを乱暴に開けて飛び出す。
次いで、真っ黒に染まった空に響き渡る無数の銃声、男たちの雄たけび。路上を埋め尽くす人々は奇声を発しながら恐れおののいて逃げ惑った。中には、常に携帯している拳銃を取り出して応戦しようとする屈強で勇敢な者たちも居たが、多勢に無勢で勝ち目は無く、鉛弾の雨によって全身をスモークチーズのように穴だらけにされて、一瞬の内にその体は消し飛んだ。
「あんまり派手にやり過ぎるなよ? いくらやってもサツが来ねえからといって、騒ぎをデカくしたらヤバいからな。……それより、さっさと金を奪って帰るぞ!」
自らも両手にサブマシンガンを構えて車から出てきたバールは、大混乱の真っ只中にいる現金輸送車に向かって走りながら発砲した。
「マフィア共が…ッ!」
しかし襲われる相手も黙ってはいない。バンの後ろに張り付いていた数台の防弾仕様のワゴン車から、まるで大統領の護衛のシークレットサービスのような出で立ちをした明らかに凄腕のエージェントらしき男たちが車のドアを開け、バール一味と違った最新式のサブマシンガンを手に飛び出そうとした。それを見たバールは、薄ら笑いを浮かべて自分たちの車の近くにいる仲間に大声で指示を出す。
「今だ、撃て!!」
その瞬間バールの声に重なるようにして、バール一味の車の付近から何発もの閃光がほぼ水平に飛び出し、防弾車に次々と突き刺さって爆発を引き起こした。ドアの開け放たれた防弾車には本来の防御能力はなく、そこから出ようとしたエージェント諸共、木っ端微塵に吹き飛ばした。車一台粉砕するには十分すぎる破壊力……それは対戦車用のロケットランチャー〈RPG−7〉であった。バールの仲間たちは、エージェントたちが車から飛び出す隙を狙って、この混乱をうまく利用して車の陰に隠れて待機していたのだ。
漆黒の最新鋭の防弾車全てから火の手が上がり、それは瞬く間にただの鉄屑と化した。通行人の悲鳴は益々大きくなり、もはや抵抗する者は皆無である。あくまで金目当ての強盗とはとても思えないその激しさと規模は、まるでアクション映画の撮影でもしているかのようだった。もちろん、そんなはずはない。この惨劇は全て現実なのだ。
そのような中でもバールは冷静かつ沈着に、現金輸送車にたどり着き2人の運転手をためらう事無く射殺すると、完全に息の根の止まったその車の後ろに回って、後ろのドアをサブマシンガンの銃底で思い切り叩き壊した。
――そこで静かにバールを待っていたのは、パズルのようにぴっちりと収められた大量のアタッシュケース。中身は確認せずとも分かっていた。彼らに豪遊を約束する、魔法の紙切れ。
あまりにも簡単に事が上手く運んだ嬉しさからか、バールは思わず口元を綻ばせた。
「よし、お前ら、早く金を車に積めろ!」
手下をあごで示して呼び戻し、自らもトランクからケースを次々と取り出し脇に抱えて、乗ってきた車のトランクに放り投げた。そして手下達は、いまだ逃げない市民を牽制する者、金を車に積める者の二手に分かれて、避難訓練のバケツリレーを行う住民さながらに流れ作業で着々と自分の仕事を行っていく。
そんな中、バールがふと噴煙立ち昇る街の上方に視線を向けた時、彼は何か光るものを見つけた。それは頭上から眼前に至るまで無数にあり、1メートル四方の四角い光のようだった。
煙が晴れ、その光の正体が分かった時、バールは思わず言葉を失いその場にただ立ち尽くした。
――それは巨大な建造物の窓。真下で起こるテロとも言える惨状など関係ないという風に威風堂々と聳え立つ、地上数十階はあろうかというとにかく巨大な建物。
莫大な予算を掛けたと見受けられるきらびやかなイルミネーションに着飾られた入り口の上には、「ロイヤル・ニューヨーク・シティ」とある。おそらくは、ホテルか何かだろう。
だが、それがどのような建物だとか、どのような目的で建てられたのだとかなどという事は、バールにとって興味の対象とはなり得なかった。彼が興味があるのは、その大きさと存在感。街を一望できるニューヨークのとびきり一等地に建てられた最大級の建造物。
まさに、「ニューヨークの全て」。
「……気に入った」
バールは銃を脇に抱え、ずんずんとそのホテルの入り口に向かって歩き出した。その突然の不可思議な行動を見て、手下の一人が慌てて声を掛ける。
「ア、アニキ! 急に一体どうしたんです!?」
「なぁに、俺達はこれからニューヨークの街全部を支配するんだ。いずれ『表の世界』で堂々と住む為に、どでかいホテルの1つや2つ、欲しいだろ」
まるでコンビニで菓子でも買ってくるような口振りで話すバールの言葉に、その手下も賛同する。
「ほ、欲しいっす!! やっぱりアニキは最高だ!」
「だろ? …よし、お前らも来い! このホテルを頂くぞ!」
『へい!』
車に現金を積む作業を終え手の空いた十数人の手下たちも、すぐにバールに付いていく。
軍の一個小隊とも言えるほど完全武装した彼らを引き連れたバールは、堂々とホテルの入り口を両手で押し開けて中へと入った。しかしバールはロビーに入るなり、呆れ顔で舌打ちした。
「……ちっ、これはどういうこった?」
――豪勢なシャンデリアや革張りのソファーがいくつも配置された最高級の広大なロビー。そこに一つたりとも人影は無く、煌々とした明かりが不自然に点いたまま不気味な静寂を保っていた。
おそらくは外の騒ぎを見て、客も従業員も慌てて逃げたのだろう。だがそれにしては様子が変だ。……あまりにも静かで綺麗過ぎる。
床は丁寧にフローリングされ物は何も落ちてはいないし、第一すぐ目の前で強奪があったにも関わらず警報ベルすら鳴らされていない。
意気揚々と攻め込んだものの異様な雰囲気に圧倒され、手下達は明らかに動揺していた。みな口々に喋りだし、辺りをうろつき始めた。
「心配すんな、落ち着け。むしろ弾代が浮いて好都合じゃねえか。人質はとれなかったがな」
そう言いながらバールは受付のテーブルに歩み寄ると、銃を置いてそこに設置された電話の『社長室』と書かれたボタンを押し、相手が出るのを確認すらせずにいきなり受話器を取って大声で喋りだした。
「おう、お前がここの社長か? 外の騒ぎが見えるか? このホテルを表の粉々になった防弾車みたいにされたくなかったらな、おとなしくこのホテルを俺によこせ。聞こえなかったか? 痛い目に遭いたくなけりゃ――」
《――断る》
「……は?」
《聞こえなかったか? まだおむつも取れんようなガキのチンピラは、おうちに帰って早く寝ろと言っているのだ》
初老の老人と思しき低い声。語り口は紳士のようで、皮肉めいていた。
バールは鳩が豆鉄砲を喰らったような驚愕の表情で大きく目を見開き、自分の耳を疑ってもう一度尋ねた。
「ヘイ、今のは俺の聞き間違いか? なんだかあんたが最高にクレイジーな発言をしたように聞こえたんだがよ」
《それなら安心しろ、君の耳は正常だ。ただちょっとおつむが異常なだけだ。すぐぶっ放すのが好きみたいだからな―――」
ガガガガガガガンッッッッ!!
瞬間、バールは険しい表情を変えずに、突然天井にマシンガンを撃ち放った。
「あ? 調子に乗ってんじゃねえぞ、くそじじい。……オーケイ、わかった。だったら力ずくで手に入れてやるよ。今からそこに行く。後で後悔すんなよ」
《来るなら勝手に来たまえ。礼儀というのを知っているなら、ちゃんと菓子折り持参でな。あぁそれと、こんな夜中に銃声なんて響かせるもんじゃない。近所迷わ――》
――バガガガンッッッ!!
受話器を叩きつけ、バールはすぐさま発砲して木っ端微塵に吹き飛ばした。既にバールの怒りは頂点に達している。全身の血管を今にも破裂しそうなほど浮き出させ、銃を握り締めた手は激しく震えていた。
ボスの豹変にたじろぐ手下を睨みつけると、バールは一度深呼吸をし、今の自身の尊厳の象徴ともいえるウエスタンハットを丁寧に被り直した。
「…お前ら、外の奴らを呼んで来い。奪った金を積んだ車を運転する奴以外のな。あと、アイリスもだ。――急げ、オラァ!!」
吐き捨てるように語尾を荒げ、急かして銃を乱射した。数人の手下が蛇に睨まれたカエルの如く縮み上がり、外に飛び出していった。
「行くぞ!」
残った手下を引き連れ、激昂したバールは地上30階あるホテルの最上階に位置する社長室を目指して、閑散としたロビーを後にした。
*
「……やれやれ、マフィア気取りのゴロツキどもが、まさかこのホテルの強奪を目論むとは。放っておくべきではなかったな」
その老人は受話器を静かに元に戻すと、後ろの革張りのソファーに倒れこんだ。
「ロイヤル・ニューヨーク・シティ」の最上階、社長室。アロマキャンドルを明かり代わりにし、四方をいくつものガラスに囲まれた高級感溢れる一室で、その部屋の主らしき老人は傍らに立つ若い女性の秘書と共に佇んでいた。
「サンドラ君、彼女は今どこにいる?」
サンドラと呼ばれた秘書はすぐに脇に抱えたノートパソコンを開き、数回キーボードを叩いた。するとパソコンのモニターにGPS地図のようなものが表示され、その真ん中で赤い光点が一つ光っていた。
「このホテルの真下、彼らの車の中にいます」
「そうか、今日は『首輪』をちゃんと付けているようだな。――サンドラ君、彼女を呼んでくれ」
「かしこまりました」
サンドラは返事をするや否や、素早くキーボードに指を滑らせるとカーソルを赤い光点に合わせた。
そして素早くクリックする。
その途端画面に、―〈CALL〉―の文字が表示された。
*
―――ピッピッピッ、
不意に、アイリスの首に付けられた首輪から発する電気信号の音が、待機のため乗っているバール一味のワゴン車の中に響き渡った。
「おい、アイリス。何か光ってるぞ。…っていうかお前、いつの間にそんな……く、首輪? 付けてたんだ?」
「すいません、ちょっと出ます」
「お、おい!?」
隣に座っていたバールの手下の制止も無視して、アイリスはワゴンの後部ドアを開け放ち外に飛び出した。
既に外の騒ぎは収まっている。バールを含むほとんどの手下がホテルに入っていったためだ。しかしあちこちでは未だに、破壊された防弾車が横転したまま炎上している。そしてその横を、他のバール一味の車が走り去っていく。奪った現金を持ち帰るためだ。
本来ならそこで計画は終了のはず。だがバールの突然の思いつきによって、新たな標的が出来た。
それは――〈ロイヤル・ニューヨーク・シティ〉の占拠。
これこそが、アイリスが「動いた」理由。
アイリスがホテルの前にまで辿り着いたのを見計らったかのように、急にホテルの入り口横に設置されていた公衆電話が鳴り出した。アイリスは迷わずそこまで歩き、受話器を取った。――電話の相手は分かっていた。
《お前が携帯電話というのを普段から持ち歩いていてくれれば、毎回毎回こんな面倒な呼び出し方をせずともよいのだがな。誰かが間違ってお前より先に取ったらどうする?》
低くしわがれてはいるが、落ち着いていて覇気のある声。アイリスのよく知る人物の物だった。
「すいません。使い方が分からないものですから」
《その機械オンチはどうにかならないものかな。……まあいい。それより、一つ面倒な事が起こった。お前に監視させていたチンピラマフィアどもだが…今、無謀にもこのホテルを強奪する為に私を殺そうと、あちこち銃を乱射しながら上まで昇って来ている。好きにやらせてやろうと今まで野放しにしていた結果がこれだ。こうなった以上、もう奴らを放っておく意味は無い。――――アイリス、奴らを消せ》
その言葉を聞いた途端、アイリスの瞳孔が開き目つきが鋭くなった。まるで自らに暗示を掛けるような。
《外にいる者も含めて全員だ。特にこのホテルからは、誰一人として生きて返すな。》
「はい」
アイリスは一言だけそう言い放つと受話器を戻し、踵を返して来た道を引き返した。
急に出て行ったと思ったらまたすぐ戻って来た奇妙な行動をとるアイリスに対して、先程まで同席していた手下の男は開け放たれたままの後部ドアから飛び出し声を掛ける。
「どうした、アイリス? ボスの命令では早く金を持って帰れって――」
アイリスは何も言わず、ただ黙って男の方に近づいた。それから男との間が1メートル程になり2人が対峙するようになった時、アイリスは俯いて何やら呟いた。
「…なさい」
「え? 何だって?」
『―――ごめんなさい』
ほんの一瞬の間。アイリスは右の脇からナイフを取り出し、勢いよく前方に突き出した。刹那、男の腹部に深々とナイフが突き刺され、男は言葉を発することも無く何が起こったかも理解できぬまま息絶えて、音も立てずにその場に崩れ落ちた。
アイリスはすぐさま今度は左の脇の下のホルスターから袖を伝わせてナイフを取り出すと、後部ドアが開いて丸見えになった車の中に投げ飛ばした。
ナイフはまるで1本の矢のように車内に吸い込まれていき、待機していた運転手の後頭部に寸分の狂いもなく突き刺さった。
「な、ついに血迷いやがったか!? ガキがっ!!」
助手席に座っていた男は突然のアイリスの心変わりにうろたえつつも、すぐさまドアを開けて車から飛び出すと腰のホルスターから銃を取り出し反撃に転じようとした。
だがアイリスはそれよりも早く、身を屈めて右のブーツに手を伸ばし隠してあったサバイバルナイフを抜き取ると、子供が川に向かって小石を投げるようなモーションで瞬時に投げ放った。
ナイフが脳天を直撃したのにも関わらず、男は地面に倒れこむ最期の瞬間引き金に指を掛けていた為、銀色のベレッタから1発の銃弾が虚空に向かって投げ出された。
あっという間に3人。その可憐な姿からは想像もつかない、圧倒的な殺戮…。
「最初の仕事」を終えたアイリスは足元に転がる出来たばかりの死体を見て眉一つ動かすことなく、「次なる仕事」の準備に取り掛かるため、開け放たれた後部ドアから車内に戻り、ドアを閉めた。
それからアイリスは普段持ち歩いているスーツケースを足元から取り出すと、幾重にも掛けられた難解な錠前を数分間掛けて外し、頑丈に作られた蓋を開けた。
――中に収められていたのは、数十種類にも及ぶナイフの山と、ぎゅうぎゅうに押し詰められた数着の衣類、それから大量の化粧道具であった。