Chapter.1 The Wolf Girl
明け方のNYの水晶玉のような淡い水色の空に、白い点が一つ、ひらひらと飛来していた。
もこもこした純白の羽を携えた、古来からの「平和の象徴」……ハト。
そのハトは黄金の太陽の光を全身に浴びながら、一軒の家へと向かっていた。
住宅街から少し離れた、小高い丘陵の上にぽつんと建っている、赤い屋根が目印のレンガ造りの住居。
その家の二階の、一つだけ開け放たれた窓から、ハトは流星のように部屋の中へと飛び込んだ。
心地よい朝日が差し込む部屋には生活観というものがほとんど感じられず、ただ必要最低限の家具が申し訳なさ程度に添えられた殺風景な景観をしていた。
ハトは、窓のすぐ横に置かれたベッドの上で、布団にシワ一つつけずに綺麗に仰向けに寝ている少女の腹の上にちょこん、と飛び乗った。
「クルックー、クルックー!」
首を小刻みに傾げながら、ハトは人形のように全く動かない少女を起こそうと、何度も鳴き声を上げる。
「クルックー、クルックー!」
「ん……」
耳元で発せられるよく知った鳴き声を聴いて、少女は糸のように細い眉毛をぴくりと動かし、やがてゆっくりと上半身を起き上がらせた。
童顔だが目を引くような美貌を持ち、背はそこそこの十六歳前後らしき少女は、ショートの黒髪をしていて、不自然に短い前髪が特徴的であった。
まだ寝足りないらしくゴシゴシと手の甲で両目を擦る少女に、ハトは容赦なく鳴き続ける。
「クルックー、クルックー!」
少女は一向に鳴き止まないハトに動じることなく、まるで当たり前のことのように、その頭を手馴れた様子で優しく撫で上げた。
すると不思議な事に、母親にあやされる赤ん坊の如くハトはすぐに鳴き止み、遂には少女の、年齢の割りには極端に未成熟な胸に顔を埋めた。
「おはよう。ジェシカ」
愛らしい天使の笑顔を、少女はジェシカと呼んだそのハトに向けた。
「クルックー♪」
先程までの甲高いものとはまるで違った猫撫で声で、ジェシカは少女の目を見つめて鳴いた。
少女はジェシカの足に白い小さな紙がくくり付けてあったのに気付いた。ジェシカは伝書バトであったのだ。
少女はジェシカの枝のように細い足を傷つけないよう細心の注意を払って、慎重に紙を取り、目の前に持ってきて静かに開いた。
三センチ大の紙の中央には、ただ
“WORK.(仕事だ)”
とだけ記されていた。
「ジェシカ、お仕事だよ」
その意味を即座に理解し、少女は相棒のハトにそう言うと、手早く「仕事」の準備に取り掛かった。
まず、年頃の女の子に似つかわしくないネズミ色の色あせたパジャマを丁寧に脱いでキチンと畳みベッドの上に置くと、下着姿のまま部屋の隅にある古ぼけたクローゼットの前に立って扉を開け、あまり種類のない数着の服の中から、墨で塗り潰したように真っ黒なワンピースを選んで取り出し、それもベッドの上に置いた。
少女は次に、クローゼットの横に添えられた小さな引き出しを開けた。
中には、見るからに高価なサバイバルナイフから、近所の金物屋に売っていそうな安物果物ナイフまで、実に数十本の様々な種類のナイフが収められていた。「仕事」の内容に応じて使い分ける為である。しかし、少女が持つにはあまりにも不気味であった。
少女は迷わず真ん中の無骨なサバイバルナイフとそれに似た型のナイフを手に取り、ベッドの上に置いたワンピースの袖口を通して、それぞれ左右の脇の部分に差し込んだ。
中でカチン、とナイフが脇の部分にはまる音がしたのを確認すると、少女はワンピースのスカートを捲くり、素早く身に着けていく。
涼しげな衣擦れの音を立たせながらものの数秒で着替え終わり、上から下まで全身を漆黒の衣装で包んだ少女は、部屋の奥のドアの前に立った。
ドアのすぐ横に立て掛けてある、旅行用の大きなスーツケース。少女はそれを両手で持つと、ジェシカのいるベッドの方へ振り返った。
「行くよ、ジェシカ」
すぐにジェシカはベッドに真っ白な羽根を撒き散らしながら羽ばたき、少女の肩に飛び乗った。
少女が部屋の鍵を閉める音を最後に、部屋には再び静寂が訪れた。
*
NYの中央から幾ばくか離れた裏通りにひっそりと居を構える、怪しげな雰囲気のバー。
朝だというのに薄暗い店内はかなり狭く、奥の席に座った人が外に出る時、前の人に椅子を引いてもらわなければならないほどであった。
一部の裏の人間達から絶大な支持を得ているそのバーの名は、〈クレイジーボンバー〉。
いかにも三流な名をした店の奥に、そこを馴染みの店として頻繁に出入りし、マスターとも親しい間柄にある男達数人が、危険な雰囲気を漂わせながら四角いテーブルを囲んで座っていた。
男達の素性は定かではない。だが彼らから受ける凶悪なオーラが、彼らが只者ではないことを物語っている。
男たちの他に客はいない。まだ早朝であるためだ。この時間に店を開けているのは、男達がある人に会うためにマスターに頼んだからである。
ふいに、静寂に包まれていたバーの空気がほんの少し変わった。
…コンコン、
誰かがドアをノックしたのだ。
一同の真ん中で両足を組みテーブルに乗せて座っている、男達のリーダーらしきウエスタンハットを被った男が、ドアに一番近い所にいる部下に向けてあごをしゃくった。
「行け」という合図だ。
短く切った金髪と逞しい肉体を持ったその部下は、すぐにドアに歩み寄り、その横に身を寄せた。
ウエスタンハットの男に目を向けると、その左手は親指を突き出し、手首ごと下に向けていた。
「殺せ」の合図。
何故か、など聞く必要がない。リーダーの命令は絶対だ。おそらくリーダーの待っている人のふりをして来た偽者といった所か。
バカな奴だ。一瞬で見破られるとは。
金髪の男は小さく頷き、カシャン、と金属の音を店内に響かせて慎重に鍵を開けた。
キィ、とドアがゆっくりと開き、そこから何者かが前に進み出た。
「失礼しま―――」
一瞬の内に金髪の男はその入ってきた者に横から飛び掛かり、強盗が人質を拘束する時と同じように、腕を突き出して首を絞め上げ、勢いよく持ち上げた。
男はあまりにあっさり捕まえられたことに驚愕しながらも、脅しの言葉を浴びせかけた。
「おら、観念しやがれ!………って、え!?」
捕まえた者の顔を見て、金髪の男は驚嘆の悲鳴を上げた。
「こいつ…お、女!? それも、ガキじゃねえか!!」
バーに入ってきた者は、黒のワンピースを着たショートカットの小柄な少女だった。
こんな所に何故子供が?
金髪の男は困惑した表情を、後ろのウエスタンハットの男に向けた。
…笑っている。
分けがわからず金髪の男が額に玉のような汗を浮かべてうろたえていると、首を絞められているのに表情を崩さない少女は、なんとか声を搾り出して呟いた。
「とどめは、刺さないん…です…か?」
「あ?何言って―――」
―――刹那、少女が右腕を横に広げ一気に脇を締めると、脇の下に装備されたホルスターが押し上げられ、そこから袖を伝ってサバイバルナイフが飛び出した。
それを袖の下で受け止め、人差し指と中指の間に挟み、真後ろに振り上げる。
ドスッ!
鈍い音を立て、ナイフは男の右肩に深々と突き刺さった。
「ぎゃああああああああああぁ―――――――っ!!」
断末魔の叫びを背に、赤々とした鮮血を浴びてその髪を薔薇のような真紅に染め上げた少女は、肩に刺さったナイフを引き抜こうとして男が腕を後ろに回した一瞬の隙に、男の腹を蹴って束縛から解放されるやいなや、先程と同じように今度は左の脇を締め、飛び出したナイフを左の手に握り締めて、男の背後に猫のようにしなやかな動きで回り込み、ナイフを振り上げた。
「―――WAIT(待て)!」
少女のナイフの切っ先が部下の男の背中に突き立てられた瞬間、背後に座っているあのウエスタンハットの男が、声を上げて制止させた。
「悪い悪い、ちょっとしたいたずらだ。遅かったな、アイリス」
「……」
少女は無言でウエスタンハットの男の方に身を配すと、ナイフを握り締めたままその場に立ち尽くした。
同時に金髪の男は肩から大量の血を噴き出し、少女の足元に倒れこみのた打ち回った。
「バ、バールのアニキ!こ、これはどういうことで!?」
左手で必死に右肩を抑えながら、部下の男は地面に顔を擦りつけながら叫んだ。
周りの男達は皆部下の男を見て笑っている。
バールと呼ばれたウエスタンハットの男は、帽子の下で口元に悪魔のような不気味な笑みを浮かべ、言った。
「ほんのお遊びさ。お前はまだ新入りだからな。……まさかこんないたいけな子供が、ナイフ振りかざして反撃するなんざ思ってなかっただろ?ガーハッハッハッ!」
そう言ってバールは大口を開けて品のない笑い声を上げた。
バールの周りの男達も釣られて声を上げて笑う。
意味がわかんねえ…なんでこんなガキが!
男は嗚咽を漏らし息苦しそうに体を震わせた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、自分の前で仁王立ちするアイリスと目があった。
翡翠色の冷たい瞳。
一切の感情が感じられない眼差し。
男は一瞬、この少女が本当に人間なのか疑わしくなった。
喉に絞められた痕を残し、多少の呼吸の乱れがあるが、一切表情を変えていない。まだ子供であるのに、人を刺したことに関する罪悪感も恐怖も見られない。いや、そもそも人を刺す事にためらいすらしなかったか。
化け物…!
アイリスと男はしばし、互いに視線を交わした。だがアイリスは何も考えていないように見えた。いや、感情を押し殺していると言うべきか。
「おい、誰かあいつを手当てしてやれ。アイリス、来い」
テーブルを囲む別の部下に向けてあごをしゃくり、刺された部下の男を運ばせるよう命じると、バールは恐ろしい笑みを口元に含ませ、アイリスに手招きした。
アイリスはすぐに見事な曲線美を描かせてワンピースの裾を翻しながらくるりと方向転換し、飛び散った血を革靴で踏みつけ、ぐちゃぐちゃと気味の悪い音を立てて歩み出した。
バールがマスターに何やらサインを送ると、マスターはバーの奥にある硬い扉で守られた部屋の何重にも掛けられた鍵を順に解錠し、「どうぞ」とお辞儀して2人を中に入れた。
ガゴンッ
と、鋼鉄の冷たい扉が閉まり、その部屋はまるで外界から閉ざされたように、不気味に淀んでいた。