ヴィンセント
【ヴィンセント】
ウェストフェン侯爵を討ち取ったヴィンセントは、そのままドイチュ国境方面へと軍を進め、国境守備隊と戦闘中だったドイチュ軍の側面を突いて散々に打ち破った。
一連の戦闘でヴィンセントが率いる近衛軍の死傷者は数百名程で、その殆どはウェストフェン侯爵との戦闘での死傷者であった。それに比して、ウェストフェン侯爵軍の死傷者は三千名を数え、残りは全て降伏した。ウェストフェン侯爵の敗北を知らずにフランカ王国に侵攻したドイチュ軍の被害は更に甚大であった。
この機を利用して徹底的にドイチュ軍を叩くと決めたヴィンセントの指示は苛烈を極め、兵士一人一人に徹底された。
ウェストフェン侯爵の内応という好機と、相手が自軍に比して少数の国境守備隊のみとの状況に油断しきっていたドイチュ軍は、突如現れたヴィンセント率いる近衛軍精鋭に側面を突かれ大打撃を受けた。
ドイチュ軍の総司令官だったシェルナー将軍は、大混乱に陥った自軍を立て直そうと陣頭に立って指揮していたが、そこをヴィンセントの突撃に呼応して総反撃に転じた国境守備隊の攻撃を受け、旗下の侵攻軍首脳部と共に討ち死にした。
総司令官と侵攻軍首脳部が討ち死にしたドイチュ軍は指揮系統を失い、混乱しながら壊走を始めた。
ヴィンセント率いる近衛軍の突撃とそれに呼応した国境守備隊の猛反撃により、ドイチュ軍は数万の被害を出していたが、その後の追撃戦でも同数の死者を出した。
司令官が戦死し戦意を失っていたドイチュ軍兵士達は、追撃を受けると戦わずに次々に武器を捨てて降伏を申し出た。しかし、ヴィンセントより全軍に徹底して指示されていた「全軍之を悉く葬るべし」との命令は敵兵の戦意の有無に係わらず、的確かつ能率的に実行され、追撃戦でも最初の突撃と同様の戦死者が出たのであった。
その後の掃討戦もヴィンセントの直接指揮によって執り行われ、フランカ国に侵攻したドイチュ軍五万のうち、故国に生還できた者は僅か数千名程であった。これにより、ドイチュ軍は実働部隊の指揮官と兵士に軽視出来からぬ打撃を受け、フランカ国境方面での活動が著しく低下した。
こうして、ウェストフェン侯爵の叛乱を鎮圧し、侵攻してきたドイチュ軍に壊滅的打撃を与えたヴィンセントは、ウェストフェン侯爵の雇った傭兵が籠もる砦を包囲している部隊と合流した。そして直ぐに、砦へと和平の使者を送った。
その使者は、時を経ずしてすぐに戻って来た。
「ヴィンセント様、使者が向こうの返答を携えて只今帰還いたしました」
ヴィンセントとランヌ将軍がヴィンセントの幕舎で軍議をしている最中に、伝令が使者の帰還を知らせに来た。
「そうか。すぐに会おう。これへ呼べ」
「ははっ!」
ランヌは、伝令兵が帰還した使者を駆け足で呼びに行った後、溜息まじりにヴィンセントに尋ねた。
「しかし、なぜに和平の使者などをお出しになったのですか? 強襲して兵に損害をださぬお考えは分かりますが、それならば降伏の使者で事足りるのではありませんか?」
腹心の質問に、ヴィンセントは不思議そうな顔で答えた。
「それはあの砦を守備する男とその一族が欲しいからに決まっているであろうが」
「如何に勇名を馳せる傭兵一族といえど、南方の蛮族共をヴィンセント様が和平とへりくだってまで向かえる必要があるとは思えませんが……」
ヴィンセントは自分の体面を気遣ってくれる腹心に、諭す様な口調で答えた。
「あの男を覚えておるか?」
「あの片目の首領らしき男の事ですか?」
「そうだ」
ランヌは記憶を探る様に暫し思案し口を開いた。
「覚えております。遠めで見ただけではありますが、恐ろしく冷ややかな目をした男でしたな」
「ウェストフェン侯の様に我が身の栄誉のみしか見えず、その為には民の命を塵芥の様に扱う貴族共がこの国にはまだまだいる。それら貴族共との戦いには、あの様な男の力が必要なのだ」
ヴィンセントの言葉に、ランヌは眉根に皺を寄せて諌言した。
「それはわかります。しかし、卑劣な貴族共と戦うからと言ってその様な者をお側に置けば、ヴィンセント様の名を汚しましょうぞ!」
(俺は良い家臣をもった。しかし、だからこそあの様な男も必要なのだ。俺に従い命を落とした数多くの者達の魂に答える為にも……)
ヴィンセントは一心に自分の身を案ずるランヌや、自分の命令で戦い命を落とした者達の事を思うと、これからの長き道のりを決して挫ける事は出来ぬ、許されぬ、と改めて思った。
「ランヌよ、確かにあの男はお前が案ずる通り、目的の為には手段を選ばぬであろう。己の一族を護る為には平気で赤子の命とて奪うであろう。だが、それはあの男がただ冷酷だからではない。戦いの悲惨さと愚かさを理解しているからだ」
ヴィンセントはいまだ理解できぬ様子のランヌに、更に言葉を続けた。
「あの男は一族を戦いの呪縛より解き放ちたいと思っておるのだ。俺もこの国の民を、戦争と言う悲惨で愚かな行為から解き放ちたいと思っている。俺もあの男も、同じ道を歩んでおるのだ。だが、俺もあの男も、血が流れるのを止めるには、血を流す方法しか知らぬのだ。もしかしたら、別の道があるのやもしれぬ。だが、俺には……」
ヴィンセントの言葉を遮る様にランヌが口を開いた。
「ヴィンセント様、それがしはただヴィンセント様を信じ従うのみです。例えそれが我子を殺せとの命であろうと、どんな命であろうと私はヴィンセント様を信じて従いましょう。ヴィンセント様がその身に血を浴びると仰るならば、まずはそれがしが浴びましょう」
「すまぬな……」
(ランヌよ、お主が俺の為にその身に血を浴びると思ってくれる様に、私も兄が血に汚れるのを、この身で受け防がねばならぬのだ……)
「閣下、使者に出た者が参りました」
ランヌはヴィンセントの言葉に深く頭を下げると、外の兵士に命じて帰還した使者を入らせた。
「通せ!」
ランヌの言葉に和平の使者として出向いた者が、ヴィンセントの幕舎に入り跪いた。
「閣下、砦の傭兵共よりの返答の口上を承ってまいりました」
「ご苦労であった。申せ」
ヴィンセントの言葉に、使者に出た者は更に平伏すると、砦の傭兵からの返答の口上を述べた。
「敵将の返答は、和平の会談の申し出をお受けいたします。前回と同じ時刻と場所にての会談、承知仕りました。以上であります」
ヴィンセントは使者を労って退がらせると、ランヌに顔を向けた。
「こたびの会談は、お主に共をしてもらうぞ」
その言葉に、ランヌは驚いて答えた。
「何を仰います! 相手は何を弄するか分からぬ輩ですぞ! なれば、お供はやはりエドワード殿にして頂かねば、このランヌ、ヴィンセント様を会談にお送りする事は出来ませぬ!」
「相手の誠意を引き出すには、こちらも誠意をもって応えねばならん。その為にはお主に共をしてもらう必要があるのだ」
「しかし……」
渋るランヌに、ヴィンセントは意地悪い笑みを浮かべて言った。
「お主、先程どんな命であろうと信じて従うと言ったではないか。その舌の根も乾かぬうちに前言を翻す気か?」
ランヌは黙ってうな垂れた。
「ははははは。冗談じゃ。しかし、明日の会談の共はしてもらうぞ、良いな」
ランヌは黙って頷くしかなかった。
前回の会談と同じく、砦と包囲軍の中間地点に双方武器を帯びず共を一名のみ連れて、日の出の時刻に会う事となった。
翌日の日の出の時刻に、ヴィンセントは前回護衛として連れた〈竜殺し〉ではなく、腹心のランヌを連れて会談へと赴いた。砦の傭兵一族の棟梁であるアーナンドは、前回と同じくシンハを共として連れてきていた。
ヴィンセントはアーナンドに馬上から挨拶した。
「アーナンド殿、馬上から物申す失礼、お許し願いたい」
「それはこちらも同様にて、お気遣いなき様にお願い致します」
アーナンドの言葉に、ヴィンセントは更に続けた。
「傍にひかえるは近衛将軍のランヌです。お見知りおきを」
ヴィンセントの言葉に、アーナンドの眉が動いた。
「そのお方がランヌ将軍でしたか。ヴィンセント殿の腹心にして猛将と伺っております」
アーナンドの言葉に、ランヌも馬上より頭を下げて礼をした。
「こちらは前回と同じく、我叔父のシンハが共に参っております」
アーナンドの後ろに控えるシンハが馬上から礼を返した。
「では、和平の話をさせていただこう」
アーナンドは、ヴィンセントの言葉に問い返した。
「前回の会談の折、和平ならずば全軍にて砦を包囲攻撃するとのお言葉でしたが、ヴィンセント殿には和平を結ぶと仰って頂けるのか」
「あの折は血気に逸り失言を申した。許されよ。使者にも申させた通り、此度は和平を結ばせていただきたい」
アーナンドは感情を表す事無く、黙って頷いた。
「では、和平の条件について述べさせていただく。和平の条件は先の会談の折に話したものと同様だ。すなわち、砦を辞去して頂ければ、一族の方々の宿泊する場所と食事を用意させる故、そこで幾日でも逗留して旅の疲れを癒していただきたい。そして、また旅に出られる時には些少ながら餞別もさせて頂こう」
「お心遣い、痛み入る」
馬上にて頭を下げるアーナンドにヴィンセントは礼を返すと、言葉を続けた。
「また、これも先日と同様の申し出だが、もしアーナンド殿さえ良ければ我が王に仕えて頂けぬか。王直属の家臣として召し抱え、一族の方々が住まう場所も用意いたそう。どうであろうか」
アーナンドはヴィンセントの言葉を考えているのか、瞳を閉じ、しばし押し黙っていた。そして、瞳を開くと、突如凄まじい殺気をその身から発しながら、両の手に闘気を凝縮し始めた。その凄まじい殺気に当てられて、ヴィンセントもランヌも、身動き一つ取れなかった。
(見誤ったか……。ここで命落とすならそれも天命であろう。ランヌ許せ……)
アーナンドの両の手に凝縮された闘気は黒く禍々しい刃の形を取り始めた。闘気によって両の手を黒い刃と化したアーナンドは、凄まじい殺気を右眼に宿してヴィンセントを睨み据えると、馬上の腰を浮かせて獣の如く飛び上がった。