アーナンド
【アーナンド】
シンハは、歩みを緩めた馬の背に揺られながら、昔を懐かしむ様に語りだした。
「俺の母は、下働きの女であった。器量が良いわけでもなく、気配りが出来るわけでもなかったが、心根の優しい人だった。恐らく、父は母のそういう所を気に入って下さったのだろうな。いつしか、父に愛された母は俺を身篭った……」
シンハは空を見上げながら、言葉を続けた。
「だがな……。ヴィクラムの母上にも可愛がられていた俺の母は、俺を身篭った事を悩み、父にも母上様にも打ち明けられずにいた。そして、腹が膨らみ隠し切れぬ様になると、母は悩み苦しんだ挙句、河に身を投げたのだ……」
(そんな……。叔父上の実の母上様は早くに亡くなったと聞いていたが、そんな事があったなんて……)
「そんな……」
言葉に詰まるアーナンドに、シンハは優しい微笑を向けた。
「だがな、俺は決して不幸ではなかった。母は助からなかったが、命を繋いで生まれた俺を、母上様は我が子の様に慈しんで育てて下さったのだ。父も庶子である引け目を感じさせる事なく愛情を注いで下さった」
アーナンドはシンハの言葉に、頷きながら答えた。
「だから叔父上は、父に跡目を譲ったのですね……」
「それは違うのだ……」
シンハは首を振りながら答えた。
「俺は父と母上様の愛情に応えるべく、強い男になろうと必死に努力した。学問も様々な学者について学んだ。今のお主より少しばかり大きくなった頃には、父の役に立てる男であるという自信もあった。だがな……、周囲がいつしか俺を認め、跡継ぎとして期待していく毎に、俺はその重荷に堪えられなくなっていったのだ……」
「叔父上が跡目の重荷に堪えられなくなったなんて、そんなの嘘だ!」
(最強の戦士である叔父上が、跡目の重荷に堪えられなかっただなんて……。そんな馬鹿な! 俺を気遣っての嘘に決まっている。嘘に……)
「俺は父に付き従い幾多もの戦場に身を投じた。戦は恐ろしくはなかったが、棟梁の采配で命を落とす者を見るのは恐ろしかった。いつかそれを俺がしなければならないと感じれば感じるほどにな……」
シンハの表情にはなんの感情も表れてはいなかったが、その目はけっして嘘を言っている目ではなかった。少なくとも、アーナンドにはそう感じられた。
「では、叔父上は棟梁の重荷に恐れをなして、父に跡目を譲られたという事ですか?」
アーナンドの言葉に、シンハは己を嘲る様な笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと首を振った。
「俺は、父と母上様の愛情を失うのが怖く、跡目をヴィクラムに譲る事さえ言い出せない臆病者であったのだ。だが、天は皮肉なものでな……。言い出せないまま、月日が経ち、跡目相続の儀式となった時、俺に跡目を継ぐ資格が無い事が判明したのだ」
「跡目相続の儀式? 跡目を継ぐ資格とはなんですか? 棟梁の血を受け継ぎ、強い男である事が資格なのではないのですか!?」
声を荒げるアーナンドの頭を撫でながら、シンハはアーナンドに尋ねた。
「お主はヴィクラムの……、父の最期の戦いを見たであろう。覚えているか?」
(最後の戦い……。たしか、父は黒い闘気を纏い異形の姿となって……)
亡き父の最期の戦う姿を思い出したアーナンドは、シンハの言っている事に察しがついた。
「あの力の事ですね……」
「そうだ。我が一族には始祖様より伝わる約定があってな。その約定を守る為に、あの異形の力を棟梁は引き継がねばならぬのだ。だが、俺にはその力を引き継ぐ適性が無かったのだ」
「それで父が後を継ぐ事となったのですか……。では、いくら叔父上が棟梁の跡目を重荷に感じていても、けっして逃げ出した訳ではないではないですか」
アーナンドの言葉に、今まで静かであったシンハは、拳を握り締めながら声を荒げて応えた。
「違う! 俺は自分に適性が無いと分かった時に、心底胸を撫で下ろしたのだ! 体の弱かったお前の父に重荷を背負わせる事も、父と母上様の期待を裏切った事も、心の片隅にさえ無かった。心の中は、ただただ己が重荷から解放された安堵感だけがあったのだ。俺は逃げたのだ!」
「叔父上……」
アーナンドは、シンハに掛ける言葉が見つからなかった。
「それからの俺は己の心を、逃げ出した己を恥じた。そして、その恥からも逃げようと必死になった。だが、己の心は欺けないのだ。逃げ続けても、決して癒される事は無いのだ。それを悟るのに随分時間がかかったがな……」
(叔父上……。叔父上は己の恥を晒してまで、私を護ろうとして下さっているのですね……)
アーナンドの目から、一滴の涙が流れた。それは泣き喚き嗚咽を漏らして流す子供の涙ではなかった。他人の痛みを知り、己の痛みとする事が出来る、男の涙であった。
「だから、今度は逃げないと決めたのだ。この命を賭してでも、お前を立派な棟梁に育ててみせるとな……。命を賭そうという男にとって、片腕など何ほどの事があろうか。はははははは」
(俺ももう逃げないぞ。いつか叔父上が片腕を無くした事を後悔しない男になってみせる!)
「叔父上。俺は、私は今の話を決して忘れません。そして、貴方はやはり父上が申した通りの方です。誰よりも強く、誰よりも人の痛みの分かる優しい、私が憧れ目指す男です」
アーナンドの涙を拭いながら、シンハは笑って応えた。
「ははははは。俺の恥ずかしい話しなのだぞ。はやく忘れてくれ」
そう言いながら、シンハはヴィクラムが最後の時に託した眼帯をアーナンドに渡した。
「今よりこれを着けろ」
「これは……?」
「それは一族の棟梁の証となる眼帯だ。そして、棟梁が引き継がなくてはならぬ力が宿っている。今よりそれを左目に着け、肌身離さぬようにしろ」
アーナンドはシンハの言葉に戸惑いを覚えた。
(俺にこれを着ける資格があるのだろうか……)
アーナンドの心を察したシンハが、明るい笑い声を上げながらアーナンドの背中を叩いた。
「安心しろ! お前の瞳は俺の父、つまりお前のお祖父さんにそっくりだ。お前の父以上にな。その目はな、棟梁の血筋に伝わる特殊な力を秘めている。その眼を受け継ぐお前に、あの力を引き継ぐ適性が無いわけはない。だから、お前は安心して立派な棟梁になろうと励めば良いのだ!」
「しかし、これを着けるのは、まだ早いのではないでしょうか……」
シンハはアーナンドの言葉に頷いた。
「確かに、今はまだ早いであろう。しかし、お前が棟梁足るべき力を手にした時、自ずとその眼帯に宿った力が解放される。それまでは急がず、お前は日々精進しておれば良い」
(そうだ。俺に今出来る事は努力しかない。罵られ嘲られ厭われ様と、ただ己の成すべき事を成すしかないのだ)
アーナンドは悩んでいる事が馬鹿らしくなった。これよりは、自分にはそんな暇などないのだから。
「はい!」
この夜、長い苦難の放浪の旅を終わらせるであろう優れた棟梁が誕生した。まだその力は幼く至らなかったが、その決意と信念は、代々の棟梁に勝るとも劣らなかった。
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