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戦士の宴  作者: 高橋 連
五章 前編 「双魂の魔人」
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アーナンド

【アーナンド】

 

 アーナンドは灯りも持たず、暗闇の砂の海を北に向かって真っ直ぐに歩き続けた。シンハに教わっていた夜空に輝く星の知識がその歩みを助けた。

(北の街まで行けば交易の隊商がいくつかいるはずだ。そこに紛れれば何とかなるだろう……)

 アーナンドはシンハより様々な学問を教授されており、その中には当然周辺諸国の言語も含まれていた。更には算術や占星術なども学んでおり、小さな隊商であれば通訳や星読みとして紛れる事ができると考えたのだ。

 アーナンドが星の輝きを頼りに歩き続けると、砂の彼方に瞬く様な明かりが見えた。

(あれは……、街か!)

 アーナンドはその光に向かって、歩みを速めた。

 アーナンドの一族が野営を張っている場所の北方にある交易都市マラカンダは、この砂漠近辺では最大規模の中継貿易都市国家であった。街の一角には不夜市と呼ばれる市場があり、その名の通り日が沈んでも煌々と明かりを焚き、多くの人々が行き交っていた。

 アーナンドはその喧騒と明るさや、溢れる品々の豊かさに目を見張った。

(何と言う賑わいだ。それに見た事もない品物ばかり並んでいる……。我が一族もこれほど豊かであれば……)

 市場の賑わいに浮かれ誘われる様に、アーナンドは並ぶ品々を見てまわった。

 東方の布や刀剣、西方の硝子や酒、南方の香辛料や宝石、更にはアーナンドの故国の品々も並んでいた。しかし、アーナンドの気を一番引いたのは、それら交易品の市の向かいで売られている食べ物の露店であった。

 様々な果実や、蜂蜜に浸した揚げ麺麭、香辛料を塗した焼肉、羊の乳を固め発酵させた物、香草と挽肉の腸詰、それらの香りがアーナンドの胃袋を刺激した。アーナンドは昼間より食事をしていない事を思い出した。

(食べ物を持って来るのだったなぁ)

 貴族の御曹司であるアーナンドであったが、貨幣と言うものにて物を購入するか、品物によって交換する事によって市場が成り立っているのは知っていた。しかし、困窮する一族から飛び出してきたアーナンドに、物を買う為の貨幣も交換する品も持ち合わせは無かった。

 目の前には、蜂蜜がたっぷりかけられた揚げ麺麭が山積みされていた。揚げ麺麭売りがアーナンドに威勢よく声をかけた。

「甘い甘い揚げ麺麭だよ! 蜂蜜たっぷりの揚げ麺麭だよ!」

 手に入らぬと思うほどに、それはアーナンドの胃袋を刺激した。ふっくらした丸い揚げ麺麭と蜂蜜の香りが辺りに立ち込める。

(一つ位良いだろう……)

 アーナンドは素早く手を伸ばして揚げ麺麭を一つ掴むと、全力で走り出した。後ろで売り物を盗まれた揚げ麺麭売りの怒りの声が聞こえる。

「泥棒だ! 盗人小僧だ! 誰か捕まえてくれ!」

 アーナンドは後ろを振り返る事無く、人混みを縫う様に走った。揚げ麺麭売りの声が聞こえなくなった所で、アーナンドは近くの露店の陰にしゃがむと、盗んだ揚げ麺麭にかぶりついた。  

ふっくらした揚げ麺麭の食感と、甘い蜂蜜が口の中に広がり、それを飲み込むと、胃袋が更に食欲を増したかのように動き出した。アーナンドは夢中になって食べた。しかし、アーナンドのささやかな食事は突然に終わりを告げた。

 アーナンドの背後から近づいた男は、揚げ麺麭を口に運ぶ事に夢中になっているアーナンドの右腕を掴むと、後ろに思い切り捻り上げた。

「うわぁっ! い、痛い! 離せっ!」

 アーナンドは腕を捻り上げられながら、仰け反るように背後の男に視線を向けた。その男は立派な口髭を生やして頭に布を巻き、都市警備隊の制服を着ていた。アーナンドの腕を捻りあげている男の後ろに、同じ制服を着た数人の男も見えた。

(しまった……。あの騒ぎで警備隊が見回りをしていたのか。くそっ!)

 口髭を生やした警備隊の男は、宣告するようにアーナンドに言った。

「揚げ麺麭一つであろうと、子供であろうと、盗みは許さん」

 口髭の男はそう言ったあと、背後に控えている男達に顎で指図した。すると、背後に控えていた同じ警備隊の制服を着た男達が進み出て、アーナンドの体を数人掛りで押さえつけた。どうやら、口髭の男は警備隊の隊長のようだった。

「離せっ! 離せよ!!」

 アーナンドを押さえつけている男達は、アーナンドの言葉が一切聞えていないかのように無視すると、体を押えたまま、アーナンドの左腕を掴み伸ばした。

(ま、まさか!)

「おい! 何をするのだ!」

 アーナンドの叫びに、警備隊の隊長が落ち着いた様子で答えた。

「盗みの罪は、腕にて償うのが掟だ。慈悲にて利き腕を残してやる」

(揚げ麺麭一つで腕を切り落とされるなんて、そんな!)

「助けて! 助けて! 誰か、助けて!!」

 アーナンドは泣き叫びながら助けを呼んだが、周囲の人だかりは冷たい目で見つめるだけであった。

「おい、舌を噛まぬよう、木片を咥えさせてやれ」

 警備隊長の言葉で、アーナンドを押さえつけていた警備隊の男の一人が、腰の袋から小汚い木片を取り出し、アーナンドの口に咥えさせた。

 だが、アーナンドはその木片をすぐに吐き出すと、またも泣き叫び助けを請うた。しかし、誰も応える者は居なかった。

「木片を要らぬというならかまわぬが……。小僧、口を閉じておらぬと舌を噛んで喉に詰まらせるぞ。では、処罰を執行する!」

 警備隊長は腰の剣を鞘から抜くと、頭上に構えた。頭も押さえつけられて下を向かされたアーナンドにも、警備隊長の動きの気配から、自分の腕を切り落とさんとばかりに剣を構えたのが分かった。

(父上、兄上、お助け下さい! 神様、神様、お助け下さい!)

 そして、警備隊長は一呼吸すると、構えた剣をアーナンドの左腕の肘の先辺りを目掛けて振り下ろした。

 風を切る刃鳴りの音が聞え、腕が切り落とされたかと思った瞬間、金属と金属がぶつかり合う凄まじい衝撃と音が響き渡った。それはアーナンドの体が震える程であった。

「何者だ! 何故邪魔をする!」

「その子に何の罪あって腕を切り落とそうとするのだ?」

 警備隊長の剣を受け止めた男の声がアーナンドの耳に聞えた。押え付けられたままの為にその姿は見えなかったが、その声の主が誰かは直ぐに分かった。

(叔父上! なぜ叔父上がここに!?)

 アーナンドは、シンハに気を取られて警備兵の力が緩んだ隙に首をひねって声の方を見た。シンハは剣を鞘に収めると、その両眼に強く鋭い光を宿らせた。それはまるで、魂を鷲掴みにされる様な光だった。アーナンドを押えていた警備兵はその眼光に気圧されたのか、手を離してゆっくりと後ろに下がった。

「おい! お前達! 小僧を放すな!」

 警備隊長の怒号が轟いたが、警備兵はまるで肉食獣の前で竦む獲物の様に、その眼に恐れを宿らせて立ち竦んでいた。

(叔父上の眼光に、警備兵の奴等怯えて動けないでいる! この隙に……)

 配下の警備兵がまったく動かなくなり動揺する警備隊長の隙を突いて、アーナンドは走って逃げようとした。その時、シンハの声が鋭く響いた。それはアーナンドの動きを止めるに十分な威厳を含んでいた。

「逃げるな!」

 そして、シンハはアーナンドがその場に留まるのを確認すると、警備隊長に話しかけた。

「非礼はお詫び申し上げる。私はその子供の身内の者だ。その者は何の罪で裁かれようとしていたのであろうか?」

「その小僧は、露店の揚げ麺麭を盗んだのだ。窃盗罪は片腕によって贖われる事に定められておる。ただ、幼い事を考慮して慈悲を与え、利き腕では無い腕にて贖ってもらう」

 警備隊長の言葉を聞いたシンハは、アーナンドに尋ねた。

「アーナンドよ、お前は揚げ麺麭を盗んだのか?」

「そ、それは……」

「答えろ。お前は盗んだのか?」

 アーナンドを詰問するシンハは、一族の裁きを下す時の様に冷たく厳しい、心の内までも見透かす鋭い瞳でアーナンドを刺すように見つめていた。

(そんなに睨まなくても……。くそっ! 助けに来てくれたんじゃないのか!)

「はい…、盗みました。しかし、たかが揚げ麺麭一つではないですか。それで腕を切り落とすなんて酷すぎます!」

 シンハはアーナンドを睨むと冷たく言い放った。

「お前は黙っておれ」

「しかし、叔父上……」

「黙っておれ!」

 シンハの怒声に、アーナンドは身が竦んだ。

「隊長殿、揚げ麺麭の代金は当然ながら、ご迷惑を掛けた店主や警備隊の方々にも金子にてお詫びをさせて頂くゆえ、それにてご容赦を願えまいか」

 シンハはそう言うと、金子を入れた袋から幾ばくかの金を取り出し警備隊長に渡した。警備隊長はその金を数え、揚げ麺麭の代金以外の金子をシンハに返すと、シンハの眼光に怯む様子も無く毅然と言い放った。

「それは出来ぬ。盗んだ品物の代価は当然支払って頂くが、それは品物に対する代価だ。盗みの罪の代価は、片腕と定められている。市場の法を曲げては、貿易都市の治安は保てぬ」

 シンハはしばし瞳を閉じると、天を仰いだ。そして、返された金子を懐にしまうと、一度鞘に収めた剣をまた抜いた。剣が鞘走る音が、静まり返ったその場に響いた。

(叔父上は一族最高の戦士である〈四肢〉の筆頭に任じられる程の腕前だ! こんな奴ら何人いようが敵う分けがない)

「貴様! 手向かうつもりか!」

 警備隊長は手に持つ剣を構えなおした。

 今まで好奇心で周りを取り囲んでいた群衆も、その場に溢れた緊張感に数歩後ずさった。


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