アーナンド
【アーナンド】
喚声と怒号が轟く度、大地に赤い血が撒き散らされた。それはまるで、沈みゆく日輪の赤い陽光が降り注いでいるかの様であった。
雄叫びをあげて殺到する大勢の兵士の中に、甲冑に身を固め両の手に細見の湾刀を持った一人の男が飛び込むと、またもそれは繰り返された。
最初こそは、多勢を頼んで立ちはだかる男に濁流の様に襲い掛かっていた兵士達だったが、やがてはその多勢も己の身を護り得るものではないと悟ると、恐慌を来たして潰走した。しかし、暫くすると新手の部隊が現れ、またも大地に陽光を降り注いだ。
アーナンドは、そうやって幾度となく迫りくる藩王軍を迎え撃つ父の姿を見つめていた。
大陸南東の大国、ガンダール帝国の全土には民の怨嗟の声が満ち溢れていた。
父である先帝の跡を継いだ若き皇帝ダヤラムは、近年続いた旱魃や凶作による飢饉等で疲弊した民を省みず、亡き先帝を祀る為の寺院や壮麗な離宮を建造し、豪奢な生活を送っていた。
更には、臣下の妻や娘に美しい者がいると強制的に出仕を命じ、逆らう者や些細な落ち度を犯した者を晒し者にして数多く処刑した。
初めは幾人もの家臣が若き皇帝の行いを諌めたが、彼らが残忍な方法で処刑されると、諌める家臣は絶えた。そして、国中に怨嗟の声が満ち溢れ、帝国全土を覆いつくしたのであった。
混乱する政情の中、先帝の弟であり北方守備の任に就いていた藩王マハヴィルは、国の窮状を憂え暴帝を廃すと言う大義を掲げて挙兵した。「北藩の変」である。
当初劣勢であった藩王軍であったが、各地で蜂起した民衆や暴帝を見限った貴族達によって藩王マハヴィルが解放者として迎えられるにつれ形勢は逆転し、「ジャンバラ平原の戦い」で皇帝軍に決定的打撃を与えた藩王軍は遂に帝都ムガルに突入し、皇帝ダヤラムが籠もる宮殿を包囲した。
宮殿を守備するのは武威をもってその名を轟かせるアシュタヴァクラ一族と、「ジャンバラ平原の戦い」で降伏を潔しとせずに逃げ延びた僅かな親衛隊だけであった。彼等が如何に精強であろうと彼我の差は如何ともし難く、宮殿の陥落は時間の問題であった。
最後の守備を突破した藩王軍は宮殿内部に雪崩込み、宮殿の各所で炎が燃え上がった。
最後を悟ったアシュタヴァクラ一族の棟梁であるヴィクラムは、皇帝の身辺を二人の息子に任せ、生き残った一族を逃す為、宮殿奥の港へと続く道に一人立ちはだかり、迫る藩王軍を殺し続けていた。
成人の儀式もまだ済ませていない十三歳のアーナンドは、その炎の明かりに照らされながら戦う父の姿を、臆する事なく――実際は初めて目にする戦に恐怖を覚えていたが、それを幼いながらも必死に押し殺して――目を背けずに見つめ続けていた。
藩王軍の幾度目かの突撃を撃退した時、燃え上がる宮殿の方角からアーナンドの兄であるババールが右足を引きずりながら現れ、ヴィクラムの前に跪いた。
(大兄様、怪我を!? 父上も兄上もどうして皇帝なんかの為に!)
「父上、陛下は……御寝所に火を放ち、御家族と共に御自害なされました」
「そうか。陛下は最後に何か申されたか……」
ヴィクラムの言葉に、ババールは静かに瞳を閉じると、心に浮かぶ想いを鎮める様に口を開いた。
「陛下は、最後に……、母と妹の事をすまぬ……と仰って逝かれました」
その言葉を聞いて、ヴィクラムは息を一つ吐くと、天を仰いだ。
「ババール、ラケシュはどうした……」
「陛下の御寝所を護り、逝きました」
ババールはそう言い終えると、その場に崩れ倒れた。その体の下には、いつしか大量の血溜りができていた。
ヴィクラムは未だ温もりの抜けきらぬババールの躯を抱きしめ、答えぬ息子に一人語りかけていた。その声は小さく、アーナンドには聞き取れなかったが、一言だけ「すまぬ」と言う言葉が聞こえた。アーナンドはその時の父を、一生忘れる事が出来なかった。
父と息子の別れを邪魔するかのように、藩王軍の喚声が聞こえた。
「アーナンドよ、兄の最後をしかと見たな?」
アーナンドは父の言葉に、目に涙を溜めながらも力強く答えた。
「はい!」
「よし。ならば最後に、「戦士の一族」と呼ばれたアシュタヴァクラ一族を率いる棟梁が戦いを見せてやろう。兄達亡き今、いずれお主が受け継がねばならぬ力だ」
ヴィクラムはそう言うと左目の眼帯を外し、全身に闘気を漲らせた。その闘気が左目に吸い込まれた瞬間、父の闘気は爆発し全身を包み込んだ。
父の体を包み込んだ闘気は、漆黒の闇の様に暗く黒く、その禍々しい闘気の中から現れた姿は、更に恐ろしかった。まるで黒い闘気を纏って現れた魔王の如き姿であった。
中背で殊更に大きくなかったヴィクラムの体が、背丈も胸回りも倍以上に膨らみ、その体を闇よりも黒い鎧の様なものが覆っていた。そして、頭部には三本の巨大な捻じれた角が、邪悪な王冠の様に生え聳えていた。
異形の黒き魔人と化したヴィクラムは、喚声をあげて迫る藩王軍に向かって、凄まじい咆哮を轟かせながら飛び込んでいった。
(あれが父上!?)
それは最早戦いと言えるものではなかった。異形の魔人は、全身から黒き闘気を漲らせ、迫る藩王軍を泥人形のように砕き千切り殺した。
当初は数を頼りに殺到した藩王軍だったが、全身に返り血と肉片を浴びた異形の魔人の姿に恐慌をきたし、今や全員が背を向け武器を捨て、必死の形相で走り逃げていた。しかし、異形と化したヴィクラムは、恐るべき速度で逃げ惑う藩王軍を追った。
その後には、体を幾つもに引き千切られて息絶えた数百の藩王軍の死体が、赤い汚泥の様に大地を覆っていた。
恐怖で震える体をアーナンドは必死に抑えながら、父の戦いをその目に焼き付けた。焼き付けようとした。だが、気づかぬうちに、アーナンドは地面に座り込んでいた。そのアーナンドの体を、背後から何者かが抱きかかえ持ち上げた。
「棟梁、生き残った一族の者は全て船に乗り込み、出向の準備も整いました」
その声は、ヴィクラムの兄であり、アーナンドの叔父であるシンハであった。
ヴィクラムはその声を聞くと、シンハに向かって頷いた後、異形の姿から元の姿に戻った。そして、いつもの優しい父の顔で、アーナンドに語りかけた。
「アーナンドよ、父はここに残り、最後の務めを果たす。お主は一族と共に逃れ、生きよ」
「嫌です! 私も一族の誇りの為、最後まで闘います!」
アーナンドは年の離れた兄二人が居た為、「戦士の一族」と呼ばれるアシュタヴァクラ族の跡継ぎとしてではなく、普通の貴族の息子として甘やかされて育ってきた。
そんなアーナンドでも、兄の最後や父の戦う様を見て、己も一族の棟梁の息子として立派に戦い果てて父に褒められたいと思ったのだった。しかし、父の反応は違っていた。
「馬鹿者! 命を無駄にするな!」
「父上は信義と誇りを守れと常に仰っておられました! 私も兄様達の様に立派に戦い、父上に抱きしめられたいのです!」
アーナンドの目から知らぬうちに涙が零れ落ちていた。
(泣くな! 泣くな!)
アーナンドは涙を流す己を責め叱咤したが、涙は止まらなかった。
ヴィクラムは、幼いながらも恐怖と戦い、一族の名を汚さぬように意地をはるアーナンドを抱きしめながら言った。
「信義と誇りは大切だ。時には命を懸けて守らねばならぬ時もある」
「なれば……」
「まあ聞け」
ヴィクラムはアーナンドを黙らせると、言葉を続けた。
「だがな、帝国への信義は、兄達や父が十分に果たした。これ以上はもう良いのだ……。お主は生き残った一族を率い、皆の命を守り、新たな道を生きねばならん。それは、ここで無駄に命を落とすよりも、辛く苦しい事だが、一族の信義や誇りを守る以上に大切な事だ。それを父はお主に託したいのだ。分かるな?」
アーナンドは黙って頷いた。
「それでこそ我が息子だ。お前を誇りに思っているぞ。さあ、もう行け。兄上、頼みます……」
ヴィクラムはそう言うと、先ほど外した眼帯を左目に着けていくつかの呪文を唱えた後、その左目の眼帯を外してシンハに渡した。
それを受け取ったシンハは、アーナンドを片手で持ち上げると、後ろを振り向く事無く駆けた。
「父上! 父上!」
それがアーナンドが父を見た最後であった。
ヴィクラムは最後まで藩王軍相手に戦って時を稼ぎ、一族はその僅かな時を無駄にせず、無事港から出航した。
アーナンドは家と国を失い、親兄弟を亡くし、僅かに生き残った一族家臣に守られて落ち延びた。
追っ手から逃れ新たな新天地を目指して海原を進む船上で、アーナンドは一族の信義と誇りを守る為に戦った父の姿を胸に刻み込もうと努力した。しかし、心に浮かぶのは家族を失った悲しみと孤独感だけだった。
歯を食いしばり涙を堪え様としたが、アーナンドの両目から涙がとめどなく流れ落ちた。一族を率いる棟梁としての重責と、一族家臣達のアーナンドの幼さと軟弱を謗る声なき声がその身に刺さる中、アーナンドの孤独な戦いが始まろうとしていた。
遂にはじまりました、五章前編「双魂の魔人」!!!
これは一章や四章に登場した片目の物語です。
私はこの片目が結構お気に入りです^-^
是非よねやって下さい^^