ムニサイ
【ムニサイ】
ムニサイは幼い頃に戦乱で両親を失い、身一つで山に逃げ込み彷徨っている所を、山奥に隠遁して暮らしていた老師匠に拾われ養われて育った。そして、その恵まれた剣術の才を見出され、老師匠の弟子となった。
己の技を伝えるべき者に恵まれなかった事を嘆き諦めて隠遁していた老師匠は、ムニサイとの出逢いに驚喜し、我子同様に慈しむと共に、己の持てる技の全てを教えんとした。ムニサイもその老師匠の心に応えんと必死になって修練に打ち込んだ。
その後、老師匠が死んだ後もムニサイはその生涯の全てを剣術の研鑽に注いだ。
ムニサイは妻も娶らず、酒色に溺れず、ただひたすらに剣術の研鑽に努め、己が拾われた頃の老師匠と同じ位に齢を重ねた時には、その名は天下第一として広く知れ渡り、幕府の剣術指南役に任じられるまでになっていた。
だが、修練を重ね、己の剣術が高みへと上るたびに、ムニサイは老師匠がたった一度だけ見せた術が遠のいていく様に感じられた。
それは老師匠が死ぬ数ヶ月前のことだった。
山奥に隠遁していた老師匠の元を訪れる者は殆どいなかったが、数年に一度は、旅の武芸者が何処で噂を聞きつけたのか尋ねてくる事があった。
老師匠は大抵は老齢を理由に立ち合いを断っていたが、断っても引き下がらぬ相手にはムニサイが相手をして追い払っていた。
だがある日、獣の様に鋭い眼光を放つ剣士が老師匠の庵を訪れた。その剣士は老師匠との立ち合いを望んだが、何時もの様に老齢を理由にムニサイが老師匠に代わり相手を務める事となった。
ムニサイは剣士の相手をすべく木刀を構えると、その剣士にも木刀を投げ渡したが、剣士は腰の刀を抜き放つと投げられた木刀を一刀で両断した。そして、低く寒々しいが、どこか気圧される様な低い声で「参る……」と呟くと、二呼吸の間を置いて真剣でムニサイに斬り掛かって来た。恐らくムニサイに真剣を抜く間を与えたつもりだったのだろう。
辛うじてムニサイは真剣を抜くと、その剣士の頭上よりの斬撃を受け止めたが、如何せん力量に差がありすぎた。
一撃目はなんとか受け凌いだが二撃目は受ける事すら叶わず、なりふり構わずに逃げかわした。
しかし、その剣士の鋭い光を放つ瞳を見ると、体の力が萎え抜けて、まるで木偶の様に動けなくなった。
木偶の如く立ち尽くすムニサイに向かって、その剣士は素早いが隙の無い足運びで間合いを詰め寄ると、独特の右肩に担ぐ様に剣を持つ構えから袈裟斬りに剣を撃ち降ろした。
恐らく、己の体は斜めに両断されるであろう、と死に直面したムニサイは冷静にその剣筋を見つめた。だが、剣士の刀はムニサイの体に届かなかった。
人為らざる速度でムニサイと剣士の間に躍り出た老師匠が、素早く腕を振ると、袈裟斬りに迫る剣士の刀は折れ、剣士の胴が薙ぎ払われて断ち斬られていた。
狼狽したムニサイが気を持ち直して事態を飲み込んだ時には、剣士は絶命し、その死体を老師匠が担いで庵の裏に運んでいる所であった。ムニサイは死体を運ぶ老師匠を手伝う事すら忘れ、先程の技を知ろうと口を開いた。
「お師匠様! 今のは、今の技は一体!?」
老師匠の動きを全て捉えられたわけではないが、老師匠の周囲に突然刃が現れたのはムニサイの目にも捉えられた。
ムニサイと剣士の間に割って入った老師匠は、刀を持つどころか、帯びてさえいなかった。それが、老師匠の周囲に現れた刃が剣士の斬撃を受け弾くと共に胴を薙ぎ払うなどと……。
老師匠は、「哀れなことをした。まずは弔いじゃ……」と呟くと、剣士の死体を担いで庵の裏に運び、自身で墓穴を掘って剣士を弔った。そして、返り血に塗れた体をムニサイと共に河で洗い流しながら、老師匠は口を開いた。
「何事も極めた先には、それを捨てる事が待って居る。無用の用こそが物事の極意じゃ。剣術も然り。しかし、それは剣術を極めてからの話じゃ。まずは己の技を極めることに専念するが良い。お主に無刀を見せるのは暫し先と思うておったのじゃがな……、お主があと十年修業した後、改めて無刀を見せようぞ」
「お師匠様! 私にも無刀の極意が掴めましょうか!?」
「刀を極めれば、刀が語りかけてくれる。その言葉に耳を傾ければよいのじゃ。儂もこの刀を手にし、十数年の研鑽の後にこの刀の声が聞えるようになり、それから無刀の極意が見え始めたのじゃ。恥を話すようだが、もしかすれば無刀もこの刀の力やも知れぬな……」
ムニサイは老師匠の言葉に、老師匠が持つ刀を繫々と見入った。
それは良く鍛えられた業物のようだが、それ以外は何の変哲も無い刀に見えた。ただ普通と違う点と言えば、柄頭に石が嵌め込まれていた。
通常は柄頭に飾り細工をするならば、宝玉か貴金属の飾りを付けるものだが、老師匠の刀の柄頭に嵌め込まれているのは研磨し磨かれてはある様だが、その辺に転がっている只の石に見えた。恐らく、鍔迫り合いの時に柄頭で相手を打つ為の打撃用の石であろう。
ムニサイの眼差しを感じた老師匠は、まるで孫を可愛がる翁の様な笑顔でムニサイに言った。
「お主の剣術がそれ相応になった時には、儂の術の奥義と共に、この刀も譲ってやろう。それ故、今は無刀の事は忘れて日々の修行に邁進する事じゃ。良いな?」
「ははっ!」
(お師匠様、ありがとう御座います! 必ずやお師匠様のご期待に応える剣士になって見せます!)
ムニサイは心の中で何度も頭を下げ、頬を伝う涙の暖かさに温もりを感じた。ムニサイはこの時の事を今でも良く覚えていた。何度も何度も頭の中で老師匠の言葉を繰り返したからだ。
親を亡くした孤児が生きるには辛い時代であった。それ故、生きる為に人でなしと呼ばれる所業もしてきた。
そんな自分を老師匠は拾って我が子の様に育て可愛がってくれた。しかも己の人生の全てとも言える剣術の奥技と愛刀までも譲ってくれると言ってくれたのだ。
荒んでいたムニサイの心に響かぬはずが無かった。だが、ムニサイは老師匠との約束を果たす事はできなかった。
老師匠はこの数年後、流行病にかかりあっけなくこの世を去ったのだった。。
ムニサイは老師匠の遺骨と身の廻りの品を庵の横の木の傍に埋めて弔ったが、あの刀だけは埋めずに遺品として受け継ぎ、己の物とした。
それから数十年。
ムニサイはそれまで以上に寝食を忘れて無刀の極意を求めて研鑽に努めたが、己の技が磨かれれば磨かれるほどに、それは遠のいて行く様に思われた。己の術が高まるほどに、あの時の老師匠の手並みの凄まじさを実感し、遠さを感じるからであった。
だが、ムニサイの心は折れなかった。
なぜなら、それは気のせいかも知れなかったが、何と無しに刀の声と言うか意志と言うか、何かが己を励ましている様に感じる事があったからだった。
老師匠が言うように、刀の声を聞けるなどと言う事は決してなかったが……。
もしかすれば老師匠の御魂が、ムニサイを見守り励ましてくれているのかも知れない、またはそれが刀の声なのかも知れない。ムニサイの頭の中はその様な妄想で溢れ、それがムニサイの妄執と狂気を燃やし育んでいったのだった。
ムニサイの逸話として、こんな話しがあった。
ある時、ムニサイが幕府の高官の酒宴に招かれた帰り道、夜も更けて辺りは暗く、灯りといえば供の者が持つ提灯と夜空の月明かりくらいであった。
その酒宴は幕府高官の祝いの席であり、供の者にも祝い酒が振舞われ、主従共に月明かりの美しさを愛でながらほろ酔い気分で歩いていた。
その時、不意に捕り方の笛の音が鳴り響いたかと思うと、ムニサイの歩く道の先の曲がり角より、抜き身の刀を携えた不貞の輩が突如として現れた。その男はムニサイの姿を見ると、驚いた様子であったが、余程実戦馴れしていたのであろう。怯む事無く、声も出さずに斬撃を浴びせてきた。
その斬撃に刀を抜く暇の無かったムニサイは、男の一撃を身を捻ってかわすと、無手のまま、すっと上段からその右手を振り下ろした。すると、男はまるでムニサイに斬られたかの如く白目を剝いて地に倒れ伏した。
しかし、後から駆けつけた捕り方に捕縛された男の身には傷一つ無く、当然死んでもおらず、ただ気を失っているだけだった。
後に捕縛された男は、金に困った食い詰め浪人の辻斬りだったと判明したが、その男は捕り方に、「目の前に現れた年寄りに斬り掛かったら、俊敏な獣の如く刀をかわされて逆に上段から振り下ろした刀に斬られた」と話したと言う事であった。
この話は武家町民とわず大いに広まり、ムニサイを「さすがは天下第一等の指南役よ」、「無刀活殺術よ」などともてはやした。
この話はムニサイの武名とその技の巧みを表す話として有名であったが、当の本人はこれ程己の未熟さを広める話しはないと思っていた。
刀は何と言おうと、所詮は殺人の道具でしかなく、そうであるが故に剣術も所詮は殺人の術であった。
ムニサイは無刀でその男を生かして捕らえたかったわけではなかった。辻斬りは捕まれば詮議も無く死罪である。死罪になる男を生かして捕らえる意味は無いからである。
ただ単に、ムニサイの無刀では殺気を刀に見せて相手にぶつけ、斬られたと錯覚させて気を失わせる事しか出来なかったのだ。
殺人術を極めようとしている男が、捕り方に追われた辻斬り浪人一人、如何に無刀とて殺せなかったのである。
老師匠の無刀は錯覚などではなく、眼前の剣客の刀を叩き折り、更にはその胴を薙いで絶命させている。幻や錯覚の類などではなく、刀そのものであった。
ムニサイはこの話を聞かれるたびに、微笑むだけで黙して語らなかった。世間はそれを謙遜と受け取ったが、ムニサイからすれば。ただ己の未熟を恥じ、技量足らずの話を厭っただけであった。
この事があってからは、ムニサイの妄執は徐々に薄れていった。
己の限界を感じた絶望感と、齢を重ね老い先の知れるようになった己の技を受け継ぐべき者がおらぬ侘しさと虚しさが、ムニサイの妄執を薄れさせたのだ。
それと同時に、己を励ます様な何かを感じる事も少なくなっていった。そして、それらは少しずつだがムニサイの中から消え去っていった。消え去ろうとしていた。
しかし、レンヤとその兄であるトウヤという名の幼子との出逢いが、消えようとしていたムニサイの中の妄執と狂気を蘇らせた。
幼き時の自分と同じ様に、親を失い山野を彷徨う子供達を見つけた時は、ただ慈悲の心で屋敷に引き取った。だが、幼子達に生きる力を与えんと思い、剣術の手ほどきをすると、すぐに彼等の資質に気がついた。
(これは、天が与え給もうた宝か……)
ムニサイは己の一生をかけた技を伝えるべき才能を持った者に巡り合えた事を天に感謝した。そして、己の技が絶えぬとなった時、消えかかった妄執が強く燃え始めた。
己の未完の技を極めんと欲するその妄執と厳格さは、芸事に取り付かれた狂気と紙一重のものになった。その狂気が、またも己を叱咤する何かを感じさせ始めた。
ムニサイが業を極めんと妄執を追いながらも、己の技をレンヤ兄弟に教え伝える日々は、ムニサイの狂気と理性の天秤を上手く保ち、十数年の歳月が流れた。
レンヤとトウヤの成長は目覚しく、ムニサイの大勢居る弟子達を追い越し、更には高弟達も敵わぬ程の使い手へと成長していた。そして、今ではムニサイに成り代わって道場で時折稽古をつける様にまでなっていた。
その為、もっぱら兄弟の稽古は、ムニサイの弟子達が帰った後の夜半に道場で行っていた。特に兄であるトウヤの資質は抜きん出ており、ムニサイはそれを大いに喜んだ。
だが、ある日の稽古の後、トウヤの技にムニサイはほんの僅かだが理由の分からぬ違和感を覚えた。ムニサイの心の中に生まれたそれはやがて疑念へと変わり、月日と共に大きくなっていった。
最初に違和感を覚えたのは、数ヶ月前の些細な出来事であった。
ある時、レンヤに稽古をつけた後、トウヤに稽古をつけた。兄弟の剣技はいまだムニサイには遠く及ばぬとはいえ、既に達人といってよい域にまで達していた。
この時も、トウヤがムニサイに一太刀浴びせる寸前の場面があった。しかし、今一つ間合いが足りず、トウヤが打たれて稽古は終わった。トウヤは稽古の後、普段通りに稽古用の木剣を壁掛けに直し、道場を去った。
また後日、何時もの様にトウヤに稽古をつけた時、またしても今少しで一太刀という場面があったが、今度は間合いに踏み込みすぎ、太刀の返しが間に合わなかったのだ。そして、何時も通り稽古を終えた。
(トウヤの腕で間合いを違えるとはな。しかし、太刀筋に乱れはなかった……。気のせいか……)
何とは言えぬ違和感が少しずつだがムニサイの心の中に芽生えた。
最初は気にも留めぬほどの違和感であったが、稽古を重ねると共にそれは徐々に大きくなり、やがては疑念へと代わって行った。
だがそれでも、それは気のせいであろうと思う様な小さなものであった。レンヤの発した言葉を耳にするまでは……。
何時ものようにレンヤとトウヤに稽古をつけ、兄弟が稽古を終えて道場を去るときの事であった。
弟のレンヤも兄同様に腕を上げ、今日はムニサイに木剣が肉薄する場面があった。レンヤは兄に向かって愚痴をこぼし、それをトウヤに窘められていた。
「兄上、今日はムニサイ様に今一歩まで迫りました。木剣がいま少し長ければ……」
「レンヤよ、如何なる剣を如何に使うか、それら全てを含めて己の腕なのだ。剣の長短を口にするなど、己の未熟さを叫んでいるようなものだ。以後二度と口にすまいぞ」
「兄上……私が愚かでした……」
涙を堪えて頭を下げるレンヤに、トウヤは珍しく陽の光の様な笑顔向けると、その頭を撫でた。
「過ちを悔いるは大事だが、如何に悔いるかではなく、如何に次に活かすかが重要ぞ。さあ、泣くな」
「はい!」
そのやり取りを眼にしていたムニサイは、兄弟を誇らしげに思った。とりわけトウヤの見識の高さに誇りを覚えた。
(トウヤは腕も見事だが、その見識は更に見事だ。師として誇りに思うぞ)
そして、その言葉を笑いながら口ずさんだ。
「剣の長短を口にするなど己の未熟さを叫ぶようなものか。成る程な。ははは……」
その時、ムニサイの心の中にあった小さな疑念が、唸りを上げてその鎌首をもたげた。
(まさか……)
ムニサイは道場に駆けると、何時もトウヤが使う木剣を手に取って調べた。
「馬鹿な……!?」
道場に置いてある木剣は一般的な真剣と同じ刀身に合わせて作られており、その寸法も全て同じであった。しかし、トウヤが常に使う場所に掛けていた木剣は、その寸法が僅かだが違っていた。一本は短く、もう一本は長く作られていた。
当然、先程トウヤが言ったように、如何なる剣を使うかもその者の技量と言える為、己の使いやすい寸法の木剣を用意し、使用する者も多数居た。しかし、それらの者達は己で道場にその木剣を持ち込み、それを持って帰っていく。
異なる寸法の木剣を使いたいなら、トウヤも道場に持ち込み使えば良い。通常の寸法の木剣に紛れさせる意味は無かった。だが、トウヤは通常の寸法の木剣に、異なる寸法の木剣を紛れ込ませて使用していた。
考えられるのは通常の寸法の木剣に紛れ込ませる事で、稽古の時に相手に寸法を錯覚させて勝ちを取りに行くという理由だ。だが、実戦ならいざ知らず、そんな事で稽古に勝ったとて己の腕が上がるわけでもないし意味も無かった。ましてや、あのトウヤがその様な卑劣な行いをする訳が無かった。
(ならばなぜ……?)
ムニサイの頭の中には既に答えが浮かんでいた。だが、それを認めるには、認めるまでには暫し時間が必要であった。
トウヤの使っていた木剣を握り締めながら、ムニサイは人の居らぬ道場の暗闇の中を、呆然と立ち尽くした。
どれほどの時が経ったであろう。夜空の雲の隙間から月の光が、僅かに開けられていた窓より道場を照らしたとき、ムニサイの姿はもうそこには無かった。