レンヤ
【レンヤ】
レンヤの心に、暫し忘れ去られていた感情が蘇っていた。
後ろで束ねていた長い黒髪も解けて乱れ、その表情には恐怖が浮かんでいた。幾つもの傷より血が滲み、体中を激痛と鈍痛が駆け巡っているはずなのに、レンヤは己の背中を流れる冷たい汗の感触しか感じられなかった。
(馬鹿な……)
己より頭一つほど低い背丈の小柄な老人は、レンヤに左腕を切り落とされながらも、レンヤ以上の体術でレンヤの動きを封じていた。更には、その状態から恐るべき速度で次々と呪文を詠唱し、剣を合わせたままの至近から呪文を撃ち放ってくるのだった。
辛うじて急所への攻撃は左腕の脇差しで捌いてはいるが、全ての呪文を受け捌く事は出来なかった。
刺客として目立たぬ様に、粗末な長衣の下に鎖帷子を着込んでいるだけのレンヤは、呪文をその身に受ける度に骨を砕かんばかりの衝撃に苛まれた。
生きる糧を得んが為に刺客に身を落としてからは、様々な使い手と剣を交えてきたが、ここまで追いつめられた事は未だかつてなかった。ましてや、相手は片腕を切り落とされた老人であれば、なおさらの驚きだった。
だが、レンヤの心に恐怖を沸き起こさせたのはそんな理由ではなかった。
その無くした右腕から血を滴らせながら立ちはだかる老人の姿が、かつてレンヤの心に恐怖を植えつけた老人の姿と重なったからだった。
それは、レンヤが生まれ育った極東の海に浮かぶ島国を出る前の記憶であった。
レンヤが生まれた頃の故国ヤマトの地は、貴族から政権を奪った武士が開いた幕府によって治められていた.。
しかしその幕府も、統治が長きに渡ると次第に内部の権力争いによって腐敗し、各地で叛乱が相次ぎ、戦乱の世となっていた。
レンヤはその様な世で幼き頃に両親を亡くし、三つ年上の兄であるトウヤとたった二人で暮らしていた。
幼い兄弟が生きるには厳しい世情ではあったが、レンヤとトウヤは山野を駆け巡り、小さいながらも兄弟で力を合わせて獣を狩り、日々の糧を得て生きていた。そんな時に、剣の師となるムニサイに出逢い拾われたのであった。
兄弟の天分の才を見抜いたのであろう。
ムニサイはレンヤとトウヤを自宅に連れ帰ると我子として育て、直弟子として教育した。それは辛く厳しい修行の日々であったが、兄弟が久方ぶりに感じた温もりでもあった。
ムニサイの期待に存分に答え、レンヤとトウヤは並居る兄弟子達を押しのけ、ムニサイの跡継ぎと目されるまでに成長した。
家族の温もりを知り、己を必要とされる事を知り、それに答える術を知ったレンヤは、まさに人生の春を謳歌し幸せであった。恐らく、このまま何事も無く歳月が流れれば、トウヤがムニサイの名を継ぎ、レンヤは新たな剣の流派を立ち上げ、妻を娶り子をもうけ、幸せに暮らしたであろう。
だが、今の幸せをもたらしたその天分の才が、その幸せを砕き散る事になった。