イディオタ
【イディオタ】
イディオタはアルベール王より急の呼び出しを受け、王城へと参上していた。
「イディオタ伯様、陛下が自室にてお待ちです」
イディオタは侍従長に促されて、王宮の奥にあるアルベール王の自室へと案内された。
(謁見の間ではないと言う事は、何か内密の話しか?)
(カミーユの勉学や修行の様子でも聞きたいんじゃろ。あやつはあれでかなりの親馬鹿じゃからのぅ)
イディオタは数年前から学問と魔術を納めるべく自分の弟子となっているカミーユ王太子の話であろうと答えたが、〈アルファ〉は納得がいかぬ様子で問い返した。
(そんな事でこんな夜更けに、急に呼び出したりするか?)
〈アルファ〉の言葉に、イディオタは無理に頭から追い出していた懸念を口に出した。
(ふむ……。まさか、今頃になって封印に異変が……。もうあれから二十年以上たつんじゃぞ)
(だからこそかもな……)
侍従長は恭しく王の自室の扉を叩いた。
「陛下、イディオタ伯様がお見えになりました」
「入れ」
その声が聞えると侍従長は恭しく頭を下げながら扉を開け、イディオタが中に入ると、静かに扉を閉めて退がった。
「イディオタよ、急に呼び出してすまんな」
アルベール王は寝台に臥していた。しかし、その顔色も声音も、五十を過ぎる年齢を感じさせない程の覇気に満ち溢れていた。
「元気そうだが、臥せっているのか?」
イディオタは王と二人と言う事もあり、気軽い口調で尋ねた。
「いや、見ての通りいたって健康だが、健康すぎてな」
王の明るいがどこか乾いた笑い声が響いた。
「そうだろうな。覇気に溢れて、とても五十過ぎには見えんいぞ。どうみても三十半ば……」
そう言ってイディオタは口を閉ざした。
(どうした?)
〈アルファ〉の言葉にも、イディオタは無言だった。
「そうなんだ。手数をかけてすまんな」
アルベールは日頃と変わらぬ笑顔で言った。
(イディオタよ、どうしたんだ? 邪気も感じぬし、アルベールも元気そうで心配ないじゃないか。三十半ばにしか見えないくらい若い……)
そう言った〈アルファ〉も、何かに気づいた様に急に言葉を失った。
(そうじゃ……。どう見ても三十半ばにしかみえん。いくら頑健とはいえ五十過ぎた男が、三十過ぎにしか見えないのじゃよ……)
「数日前から体中に力が漲ってきてな。見た目も若返ってきたよ。だから病気で臥せっているという事にして、自室に籠もっていたんだ」
「〈イプシロン〉は何と言っておるんじゃ?」
イディオタは青ざめながら、何かに祈る様に尋ねた。
「〈イプシロン〉もこれ以上は力を押さえられないと言っていてな……」
「そうか……」
イディオタは静かに頷いた。
(そんな、この二人なら、このままあいつの魂を押さえ込める筈じゃなかったのか)
(〈イプシロン〉が言うなら間違いあるまい。儂等は決めた通りやるだけじゃ)
自分以上に辛いであろうイディオタが、その気持ちを押し殺しているのを感じた〈アルファ〉は、それ以上は何も言わなかった。
「アルベールよ、何か儂にできる事はあるか?」
アルベールは済まなさそうに答えた。
「お主が政治に関わらぬ様にしてきた事は分かっているが、俺の後はカミーユが即位できるよう、支えてやってくれないか」
「カミーユは王としての資質は申し分ないが、本人は王になどなりたくはないじゃろう。親として息子に後を継がせたい気持ちは分からなくもないが、儂はヴィンセントが継ぐのが良いと思うが……」
アルベールはイディオタの言葉を認めるように、頷きながら答えた。
「確かにカミーユは王になどはなりたくないだろうな……」
「なれば、カミーユの思う通りに生きさせてやる事が、子を想う親心であろうが。死んだテレーズ妃もそう願っておるはずじゃ……」
イディオタの言葉に、アルベールは断固とした口調で答えた。
「テレーズの話はするな……。それに、カミーユは俺の息子である前に王太子なのだ。弟は確かに優れた才をもっているが、野心がありすぎる。あいつは必ずこの国を戦乱へと導く。それだけは決してさせてはならん! カミーユには悪いが、王子の務めとして、国の礎になってもらう」
「しかし、ヴィンセントならば他国に後れをとる事はなかろう。貴族共との戦いの時のあやつの手並みは、お主も知っておろう」
アルベールは、さらに強い口調で答えた。
「だからこそだ! 才溢れるが故に、ヴィンセントは必ず周辺諸国を脅かそうとするだろう。人の世の安らぎは、何者にも踏みにじる権利はない!」
イディオタはアルベールの言わんとする事を理解した。
フランカ国は、アルベールが戦乱を鎮めてからは治世に励み、今だ戦乱の傷跡が癒えぬとはいえ周辺諸国にとって容易ならざる力を持った大国となっていた。そこに才能に裏付けされた野心溢れる王が現れれば、その未来は自ずと見えてくるであろう。
だがイディオタには、長年共に戦い、建国後も国政の実務を取り仕切ってきたヴィンセントが、己の野心のみで己の愛する故国を戦乱に巻き込むとは思えなかった。ましてや、王としての資質が優れているが故に、戦の愚かしさをも知っているであろうと思った。
「アルベールよ。確かにヴィンセントはその才能も覇気も、尋常ならざるものを持って居る。しかし、やっと戦を終えて民が安寧な暮らしを謳歌できる様になった故国を、無闇に戦乱へと導くとは思えん。ましてや、あやつほど王としての資質に秀でた者もおるまい。なれば、戦の愚かしさも、それが民に与える苦しみも知り抜いておろう。お主の心配は杞憂ではないか?」
アルベールは瞳を閉じて俯くと、不意に大きく息を吐き出した。そして、暫しの沈黙の後、イディオタの言葉に静かな声音で答えた。
「イディオタ、ヴィンセントが優れた王の資質を持つのは俺も知っている。俺のみならず、この国の民心も、更には周辺諸国までも知っておろう。なればこそなのだ……。俺もヴィンセントが無闇に戦を起こすとは思ってはおらん。しかし、優れた王に率いられた大国を隣国に持った国々は、絶えず疑心暗鬼に怯え、その怯えはやがて敵意へと変わる。だから、建国後に俺は全ての政務から退き、ヴィンセントとそなたに国政を任せたのだ」
イディオタはアルベールの言わんとする所を理解した。
ヴィンセントの軍事的才能は先の戦乱での戦いで周辺諸国には知れ渡っていたし、更には、戦乱で荒れ果てた国土を、まだ完全とはいえぬまでも復興させたヴィンセントの政治的手腕にも、周辺諸国は油断ならぬ思いを感じているであろう。
軍事的にも政治的にも優れた手腕をもつ王は、隣国にとってその存在だけで脅威であった。ましてや、それが肥沃な平野と戦乱を戦い抜いた強兵を持つ大国であればなお更であろう。
「わかった。カミーユは儂が面倒を見よう。ただし、あくまでもお前の息子としてじゃ。それ以上は約束できんがそれでもよいか?」
「ああ、すまない」
アルベールは安堵に満ちた笑顔をイディオタに向けた。
(この笑顔に、ついついやられてしまうんじゃよ……。ずっこいのぅ)
(アルベールはお前と違い、本当に尊敬できる奴だからな)
(あぁ……)
〈アルファ〉の皮肉を相手にせず、イディオタは素直にその言葉に頷いた。
「イディオタ、俺は恨んでもいないし、後悔もしていない。俺にその魔導師の魂が宿っていたからこそお前にも出逢えたし、お前に出逢えたからこそこの国に平安を取り戻せたのだ。ありがとう」
アルベールの言葉に、イディオタは何も答えられなかった。イディオタの心の中は、己の力の及ばぬ事を詫びる気持ちと、アルベールへの感謝の気持ちで一杯であった。
そんなイディオタの心情を察したアルベールは、友と食事を始めるかの如く、明るく楽しげに声を掛けた。
「さあ、はじめようか」
イディオタはただ頷くしかなかった。