沙弥への最後の贈り物
私のお姉ちゃんは魔法使いなんだよ。
私は魔法を使えないけど、お姉ちゃんが魔法で守ってくれるんだよ。
そんな優しいお姉ちゃんの事、私は大好きだよ。
「富士山、とってもきれいだったね!」
「えぇ、そうね」
私には結構歳の離れた妹がいる。私は既に大学に進学しているが、妹はまだ小学校6年生であり、背の高さの違いにいたっては20センチ程もある。そんな私の可愛い妹は、滑走路がよく見えるテーブルに私と向い合って座っており、窓のそのとの風景に目を輝かせながら温かいココアを飲んでいた。
「お姉ちゃん、あの飛行機って沙弥達が乗った飛行機と同じ飛行機だよね」
妹……沙弥 が指さす先で、ライトグレーの垂直尾翼に「JLF」と書かれた双発機がのろのろと滑走路を目指して動いていた。
「これから何処へ行くのかしら」
私はそう言うとまだ熱いコーヒーを啜る。曇った眼鏡のレンズの向こう側で、沙弥がまだ窓の外を熱心に眺めているのが分かった。
「きっとまた富士山の周りをまわるんだよぉ」
私達は飛行機を降りたばかりで、沙弥は興奮冷め止まぬといった感じでキャッキャッと無邪気にはしゃいでいた。1月の頭が誕生日であり、いつもお年玉と誕生日プレゼントが一緒で損をすると嘆いていた沙弥に、私がプレゼントした元旦の富士山上空を飛行機で周回する1時間ばかりの旅行は大変好評であったと見える。これほど姉冥利に尽きることはない。
「ほら、暖かいうちに飲んじゃいなさい、折角なのに勿体無いわ」
「はぁい」
沙弥は両手でマグカップを包み込むように持ち、暖かいね、と私に微笑みかけた。そしてカップを傾け少し口に含むと、すぐにカップをテーブルに戻した。
「まだちょっと熱いなぁ……お姉ちゃん、魔法でぬるくしてよ」
「ダメよ沙弥。そう簡単に魔法を使っちゃいけないの」
「ちぇー……沙弥も使ってみたいなぁ、魔法」
そう残念そうに呟くと、受け皿に載っていたスプーンでココアをかき回す。私と違い沙弥には魔法を使う素質は無いが、ある意味へんな輩に絡まれない分その方がかえって幸運であったといえるだろう。カラカラという音が少しずつココアの熱を奪ってゆく。沙弥はココアをかき回して、窓の下を何かが通るとポシェットに入ったデジタルカメらを取り出しては撮影し、を繰り返している。沙弥が今使っているデジタルカメラは私のお下がりで、正直そこまで性能は良くないし、撮影枚数も大したことはないのだが、彼女は大変気に入っており無くさないようにと撮影してはすぐにポシェットにしまう事を癖にしているようだ。
ココアが飲める温度まで下がり、少しずつマグカップの中身が減っていく。そして残り半分を過ぎた頃、彼女の視線が泳ぎ始め、もじもじと落ち着かずに体を動かし始めた。
「あら、どうしたの?」
「うん……なんだかね、足の付け根が痛いの」
沙弥は足の付根を親指でぐっぐっと押す。押す度にその可愛らしい顔をしかめている。私は中腰になり彼女の足を覗き込む。何が起きているのかの大体の予想はついていた。かといって何かできることがあるかと言えばそうではないが、なにもしないで座っているだけでは私も落ち着かない。妹が心配なのだ。
「まあ、大丈夫なの?」
「うん。そんなに痛くないから平気。歩けないほどじゃないし」
そう言うと沙弥は私にこわばった笑顔を向けた。気を紛らわすつもりなのか、彼女はデジタルカメラを取り出すとそのままポシェットの口を締め、今日取った写真を見返し始めた。
「あーあ、ぶれちゃってるなぁ……お母さんに見せてあげようと思ったのに」
「そうなの?私にも見せて」
沙弥から受け取ったデジタルカメラの画面には、少しぼけてはいるものの、コントラストのはっきりした美しい富士山が写っていた。確かこれは南側から撮ったもので、北側には雲がかかっているがちょうど手前側は裾野まで綺麗に視界が開けていた。
「飛行機少し揺れてたし仕方がないんじゃない……?それによくとれてると思うわ」
「そうかなぁ」
「そうよ。沙弥が撮ったって言ったらお母さんきっと喜ぶわ」
そっかぁ、と沙弥は嬉しそうに笑い、レンズを窓の外に向けた。
「あれ、なんだか霧がかかってきちゃった」
沙弥の視線を追うように窓の外に視線を向けると、さっきまでは滑走路の奥までよく見えていたはずなのだが、いつの間にか空港周辺は霧に覆われており、手前に停まっている航空機の尾翼すら霞んでいるような有様だった。
「これじゃ離陸も着陸もできないわねー……」
「ねー。沙弥たちグッドタイミングだったね!」
沙弥は笑うとまたデジタルカメラを手元に戻すと、再び写真の選別を始めたようだ。私はその様子を黙って見守っていた。ときたま私にデジタルカメラを渡しては「よく撮れたでしょ!」と自慢気に語ったり、「ぶれちゃった……」と一喜一憂していたが次第に言葉数が少なくなり、うつらうつらと船を漕ぎ始めた。そして、その揺れる体の向こう側に後ろの座席のシルエットがぼんやりと透けはじめた時、私は彼女も自分も限界が近い事を悟った。私は立ち上がり、沙弥の隣に移動した。そして彼女を起こさないように静かに腰掛けると、その小さな肩を抱き寄せた。
「お姉ちゃん……?」
虚ろな目で私を確認した沙弥は不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「疲れたんでしょう?無理しなくていいのよ」
私は沙弥の綺麗な髪を撫でながら優しく語りかけた。沙弥の顔は穏やかそのもので、小さく微笑むと私に体重を預けた。
「お姉ちゃん、沙弥、少し眠いや」
「えぇ、分かってるわ。ゆっくりおやすみ」
沙弥の髪からほんのりとシャンプーの臭がする。私はその匂いを忘れないようにと彼女を優しく抱き込むと、赤子をあやすように背中をぽん、ぽん、とゆっくり叩く。沙弥の姿が段々と薄くなってゆく。抱きとめている私の腕が、沙弥の背中越しにはっきりと確認できた。私は少しでも沙弥がここに留まれるようにと、無意味とはわかりつつも腕に少し力を入れた。
「お姉ちゃん」
沙弥が私の腕の中で呟いた。
「なぁに、沙弥」
既に窓の外に留まらず、今自分たちが座っているカフェテリアの中ですら、30センチ先に何があるかわからない程に霧が立ち込めていた。まだ沙弥は温かい。
「次も、お姉ちゃんと一緒がいいな」
それがまた旅行に行きたいという意味なのか、別の意味だったのかは分からないが、その言葉が私の目からこらえていた涙を押し出した。
「大丈夫、私はいつまでも沙弥と一緒」
もはや沙弥の姿は輪郭がかろうじて見えるだけで、その表情すらもわからないほどになっていた。だがまだ私の腕の中に確かに沙弥がおり、静かに息をしているのが分かった。私は沙弥の耳元で、ゆっくりと囁いた。
「沙弥、生まれてきてくれて、ありがとう」
そして一呼吸置き、もう一言。
「ごめんね」
その瞬間、沙弥がゆっくりと私の背中に腕を回したのを感じた。もう彼女の姿は見えない。そしてそこにあった感触すらなくなり、私はバランスを崩し、沙弥が居たはずの席に手をついた。しばらくまだそこに沙弥が居るんじゃないかと思い、彼女がいた場所をぼんやりと眺めていたが、やがて彼女は先に行ってしまい、ここに残っているのが自分だけであると理解し、ゆっくりと立ち上がった。もうこの空間を維持しておく必要はない。此処から先を味わうのは私だけで良い。私は静かに目を閉じて、そして体の力を抜いた。
突如猛烈な突風に見まわれ、宙に投げ出されたのが分かった。いつの間にか私師の体は座席を離れており、座脇腹に鈍い痛みが有る以外、特に大きな怪我をしていないのはほぼ奇跡と言えるだろう。私は今、地面に向かって真っ逆さまに降下していた。遙か下に沈みかけた夕陽を反射した美しい海原が広がっていた。一緒に巨大な金属片が周りを飛んでいなければどんなに幻想的な風景だっただろう。私はこの飛行機の残骸と共に海の藻屑になろうとしている。
私がもっと魔法の練習をしていれば、もしかしたら妹を助けることができたかもしれないと思うと悔やんでも悔やみ切れない。そもそも私が見栄をはって妹をこんな格安の飛行機ツアーに招待しなければよかった。もう後の祭りだ。何を言った所で所詮無駄なのだ。だがせめて幻術で沙弥を安らかに送り出せたことは不幸中の幸いだった。脱落し火の玉と化したエンジンが轟音をあげて私に向かってきているのが見える。あぁ、やはりここまでか。
あたりを見回しても沙弥の姿は見えない。まだ彼女の体は上空で火柱を挙げて滑空している主翼と胴体部分に残っているのだろうか。見るも無残になった妹をみて母は正気を保っていられるだろうか。親不孝者で、その上まだまだ長かったであろう沙弥の人生を奪った私はきっと地獄に落ちるだろう。ごめんね沙弥。ああは言ったけど、次は一緒になれないと思う。寂しいかもしれないけど、今度はきっと、幸せな人生を送ってね。
でもどうか忘れないでほしい。私は貴女のことが大好きだったの。
貴女に喜んで欲しかったの。
たった一人の妹すら守れなかった私をどうかゆるして。
貴女ともう二度と合わないことを祈ってる。だって貴女は地獄に来てはいけないから。
さよなら。沙弥。
あぁ、これが私で良かった。