鯉に恋した旅人
むかし、むかし。あるところに、一人の旅人がおりました。
この旅人には、大そうお気に入りの名湯がございましてな。湯の煙がふわりと立ちのぼるその宿を、時折訪れては、心と体を休めておったそうでございます。
その宿の庭には、見事な池が一つ。
中を覗いてみれば、赤や白、金や黒と、色とりどりの立派な錦鯉たちが、まるで錦の帯を織りなすように悠々と泳いでおりました。
ところが、でございます。
大勢の鯉たちの中に、ふと旅人の目を引きつけて離さない、一匹の小さな小さな鯉がおりました。
周りの大きな鯉たちが「我さきに」と威勢よく泳ぎ回る中で、その小さな子だけは、どこか頼りなく、ひっそりと揺れているばかり。
「おや……あの子は、ちゃんと飯を食えているのだろうか」
旅人は、いつしかその小さな鯉のことが頭から離れなくなってしまいました。
気がつけば、宿へ足を運ぶ回数もだんだんと増えていきます。
池のほとりに腰を下ろし、じっと観察を続けておりますと、案の定、宿の客が撒くエサの競り合いには一歩も二歩も遅れてしまう。旅人は心を痛めましてね。
「よしよし、今だ」
大きな鯉たちが群がる場所を少し外し、その子の小さな口の、ちょうど目と鼻の先へ――そっとエサを落としてやったのでございます。
「さあ、お食べ」
ところが、どうでしょう。
目と鼻の先、口のすぐ前にぽとりとエサが落ちたというのに、その小さな鯉は、まったく気づく様子がございません。エサはそのまま、目ざtoi他の大きな鯉に、すいっと横取りされてしまいました。
「……おや?」
何度試してみても、目の前のエサに反応を示さない。
それどころか、「はむっ……ゴボッ……」と、エサの落ちた気配だけを頼りに、必死に周囲の水ごと口の中へ呑み込んでいる様子でございます。
「もしや……あの子は、目が見えていないのではないか……?」
目が満足に見えぬからこそ、水流の揺らぎだけを頼りに、命がけで口を開いているのでしょう。
けれど、そんな不器用なやり方では、お腹に入っていくのは冷たい池の水ばかり。
呑み込んだ水で小さなお腹を膨らませながら、どこか苦しそうに、それでも健気に尾ひれを振るう小さな影。
旅人は、その痛々しくも愛おしい姿から、もう一瞬たりとも目を離すことができなくなっておりました。
◇
しかし、季節は巡ります。
旅人は毎日の仕事の忙しさに追われ、あたたかな湯のけむりからも、あの静かな池からも、すっかり足が遠のいてしまいました。
「あの子は……無事に過ごしているだろうか」
ふとした合間に思い出しては胸を痛めつつも、気づけば半年あまりの時が過ぎていたのでございます。
ようやく万障をくり工面し、旅人は居ても立ってもいられず、いそいそと懐かしい宿へと向かいました。
宿に着くやいなや、荷物もそのままに池のほとりへと駆け寄ります。
「おーい、帰ってきたぞ」
旅人は必死に目を凝らしました。
赤、白、金、黒……群がる鯉たちの中に、あの愛おしい影を探します。
しかし――いくら探しても、いくら水面を見つめ直しても。
あの小さく、不器用で、健気に揺れていた影は、どこにも見当たりませんでした。
「……いない」
半年という月日の重さが、ずしりと旅人の肩にのしかかります。
目が見えず、水ばかりを呑んでいたあの子が、この広い池でどうなってしまったのか。
(なぜ、もっと早く来てやらなかったのだ……)
悔やんでも悔やみきれぬ想いが溢れ出し、旅人はその場に膝をつき、ぽろぽろと涙をこぼしました。
冷たい池の縁で、声もなく泣き崩れる旅人の涙が、ポツリ、ポツリと水面を揺らします。
◇
その夜のことでございます。
あかりを落とした客間には、ただ静かな湯の香りが漂っておりました。
旅人が畳の上に横たわり、悲しみに暮れながら浅い眠りにつこうとしていた、そのとき――。
「トントン……」
静まり返った障子を、たしかに叩く音が聞こえたのでございます。
旅人が体を起こして障子を開けてみますと……そこには、見知らぬ小さな少女がぽつんと立っておりました。
体にそぐわぬ、可憐な錦の振り袖を身に纏い、ちょこんと首をかしげて旅人を見上げております。
「……こんな夜更けに、どちらのお子さんかい?」
旅人が問いかけると、少女は小さな唇をかすかに震わせ、涙をこぼしながら囁きました。
「貴方に会いたかった……っ。ずっと……ずっと……。でも、私はもう、いないのです」
少女は振り袖の袖をキュッと握りしめ、溢れる涙をぬぐいもせず、旅人をじっと見つめました。
「目の見えない私に、いつも優しくエサを投げ入れてくれたこと……。上手く食べられなくて、水ばかり呑んでいた私を、ずっと見守ってくれたこと……。嬉しかった……本当に、嬉しかったのです」
そこまで聞いて、旅人はハッと息を詰まらせました。
この子は――あの、小さな鯉。
「今まで……ありがとう……」
少女は静かに微笑むと、深く、深く、頭を下げました。
その姿が、まるで水面に落とした一滴の雫が広がるように、輪郭を失ってゆきます。
「待っておくれ! 行かないでくれ!」
旅人が思わず手を伸ばしたときにはもう、少女の姿はなく、ただあたたかな錦の衣の残り香と、畳の上に小さく残された、一筋の水滴があるばかりでございました。
◇
恋と、鯉。
旅人はそのとき初めて、己の胸の奥で渦巻いていた熱いものの正体を知ったのでございます。
あの子の不器用な姿に心を痛め、会いたくて宿へ通い詰め、姿が消えたと知って泣き崩れたあの涙。
それは単なる憐れみなどではなく、まぎれもなく一匹の鯉に捧げた、生涯でたった一度の「恋」だったのでございます。
消えてしまった少女の残り香を抱きしめながら、旅人はただ静かに、月を見上げ続けました。
逢えなくなってもなお、胸の中で泳ぎ続ける小さな影。
その温もりがある限り、男の恋が消えることはございません。
むかし、むかしの、切ない恋のお話。
どんとはれ――。




